(A5’-1)夏は終わり秋が腰を落ち着ける【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 夏の終わりはにおいでわかる、と言っていたのは山梨の祖母だったろうか。

 朝六時半、いつものように生ゴミを出しに行く時、口をすぼめて息を吹きかけるようなひんやりとしたそよ風がむき出しの肌を撫ぜた。蒸発した脳みそのようなかすかすのにおいではなく、緑の少ない都会に訪れた自然のしっとりとした湿り気のにおいだ。駅の階段で吹き出した汗を一瞬で氷に変えてしまうような冷房の効いた通勤電車はその冷気を緩め、車内はふたたびむっとした汗と市場のにおいを取り戻していた。
アスファルトの照り返しで息をするのも苦しかった午後二時の中央大通りは相変わらずの暑さでその首をうなだれているものの、両脇に生える樹々の色がほんの少し黄金色に染まってきた。だらだらと西の空を照らし続けていた太陽は、ようやく月にその輝きを移し替え始めた。もう役目を終えようとしている風鈴が、ちりんちりんと最後の音色を響かせる。草を揺らせる風は、夏のあいだずっとそこに留まっていた使い古しの空気をどんどんさらってゆく。

 まだおばあちゃんにはかなわないな、と橙子は思う。私はまだ、五感ぜんぶを使わないと、夏が終わってゆくことに気づけない。でも秋が来るのは不思議な気持ちがした。もう何もかも溶けて、このまま永遠に形を取り戻すことなんてないんじゃないかとさえ思っていた夏が、引き潮のように確実に、そしてすばやく遠のいてゆく。春が来るときはあんなにも暖かくなったり寒くなったりを繰り返しながらだんだんと慣れていったのに、秋はそんなことを感じる間もないままにかつての夏の居場所にどんどんと腰を落ち着けてゆく。ぶわっ、ぶわっ、と風が吹くたびに、夏はその場を譲り、一年あとまで土で眠る。そうしてやってきた秋は、決していじわるではない。卑屈で悲観的なやつでもない。かと言って、無条件に実りをもたらす母なる優しさだけをその中に持っているわけでもない。一年のうちで一番輝かしいお祭り騒ぎを自然に与えた後は、生きとし生けるものに冷たい死をもたらし、またはじまりの場所へと誘ってゆく。自然と手を切った人間は、もう外から眺めてぬくぬくと鑑賞するしかない。ああ、秋だなあと。まるで他人ごとのように。

 あれから十度目の秋が足音を立てて近づいている。会社をはじめて今日で十年。それは橙子にとってある意味で大きな区切りの年だった。四年前に事務所を少し大きなところへ移し、スタッフも四名に増えた。少しは会社らしくなったのだろうか。自分に問うその答えは、いつもしっかりとした返事を返しては来ない。毎年創立記念日には、室田を招いて事務所で夕食をともにするのが慣例となっていた。これからの会社のこと、資金繰りのこと、室田はいつも善きアドバイザーだった。会社がうまくいかないとすれば、それは室田のアドバイスのせいではなく自分の力量のせいだ、と橙子はいつも自分に言い聞かせるようにしていた。去年の記念日からは、ここに凜花が加わった。

 「とにもかくにも十年よ。すごいわね」おめでとう、と室田は綺麗に白髪染めを施した栗色の髪をなびかせて言った。

 「わあ、綺麗なお花。ありがとうございます」大きな胡蝶蘭とともに事務所を訪れた室田を迎え入れる今日の橙子はエプロン姿だ。

 「凜花は今日研修を受けに行っているので、遅れて参加します。下請けするかもしれないセミナーの内容を聞きに行ってくれていて。十年って言ってもまだまだ赤ちゃんですね。このあいだもちょっときついことがあって」

 「まあまあ、お酒飲みながら聞くから」と室田が靴を脱ぎながら3LDKのマンションの一室に上がる。料理好きな橙子のこだわりもあり、今度の事務所は本格的なキッチンのついた住居用マンションだった。

 「すみません。料理、もう少し待っていてください」と橙子は室田を部屋に案内する。

 「やっぱり改めていい眺めだねえ。事務所にするのはもったいないくらい。橙子さ、会社やめてここでレストラン開くのもいいんじゃない。料理うまいんだし」

 「ここ、そういう契約で借りてないのでだめなんですよ。それに料理教室はしていますしね。レストランじゃ、私のやりたいことはできないんじゃないかな。だって、名前も知らない人のために丸一日料理し続けるなんて、ちょっと私には無理だから」と橙子は笑う。透明な皿に盛られたアボカドサラダは、我ながら美しい出来栄えだ。

 「冗談よ、あなたにルーチンワークは向いてない。とことんね」室田は持参したワインを冷蔵庫に入れる。

 なにか手伝うことない? いえ、今日はお客様なのでゆっくりしていてください。
 新年会で百合子にかけた言葉をそっくりそのまま室田にかける。同じ言葉なのに、こんなにも心のあり方が違う。

 「ねえ、覚えてる?」沈んだ太陽の余韻が残る薄明るい空を眺めながら、室田がつぶやく。

 「え、何か言いました? ちょっと料理していると声が聞こえにくくて」

 「大学時代さ、よく五人で遊びに行ったでしょう。あとの二人、覚えてる? 黒田さんと酒井くん」室田が少し声を張り上げて言った。

 「覚えてますよ、もちろん。黒田さんは分厚いメガネに天然パーマのおぼっちゃんで、酒井さんは声が大きくて、髪の色がころころ変わっていた。二人ともいい人でしたね」

 「私、今度その黒田さんと結婚するのよ」室田はいつの間にか橙子のほうを見ていた。「えっ」思わず顔を上げた橙子の目と合った六十近い室田の目は、いまは女のそれだった。

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(A5’-2)癒えない種類の傷

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