(A5’-2)癒えない種類の傷【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 乾杯。かちんとグラスを合わせて上等のシャンペンを口に含む。テーブルの上には、ずらりと料理が並んだ。

 「コースも何もない、順番がむちゃくちゃな料理ですが。このほうがゆっくりお話できますからね」橙子はエプロンを取り、おろしたてのワンピース・ドレスで席についた。

 「さっきのお話、詳しく聞かせてください。ほら、凜花が戻る前に」橙子は料理を皿に取り分けながら訊いた。

 「最初から話せば長い話になるのよ。今日は記念日なんだし、橙子の話をしましょう」と室田は首をゆるやかに振った。

 「聞かせてください。室田さんのそういう話聞いたことないし、それに私の話ならきっと凜花のほうがうまく話してくれると思うから」情けない話だけれど、と橙子はできたてのグラタンを頬張る。

 「そう、わかった。じゃあせっかくのお料理を温かいうちにいただきながらね。それは」そうして室田は話し始めた。

 「私が今の旦那と結婚した時からすでに始まっていたのかもしれないし、二年前に偶然黒田さんに再会しちゃったことから始まったのかもしれない」室田は机の上の食器の、そのずっと奥を見つめていた。

 「私に子どもがいないのは知っているでしょう。旦那はね、子どもが欲しかったの。いえ、正確に言うと旦那の家には子どもが必要だった、というべきかしら。お互いもっと早くに離婚しちゃえばよかったのにね、私が子どもを産みにくい体だってわかった時に。でもね、旦那はとことん私に優しかったし、私もそれに甘えちゃったのよ。そうして旦那はたぶん永遠に子どもを持つ機会を失ったし、私は何十年もかけて少しずつすり減っていくことになった。あるいは旦那の精子はまだ生きていて、私と離婚した後に若い奥さんと結婚して子どもを持つのかもしれない。でもね、そんなことを想像すると、私は家の中のものをなにもかもひっくり返してしまいたいような気分になるの。そうなることを避けるためだけに、ずるずると結婚生活を長引かせていたのかもしれない。旦那の仕事を手伝って、私は旦那にとって、彼の家族にとってちゃんと必要な存在なんだって証明するためにね。楽しくないわけじゃなかったのよ、幸せじゃないわけじゃなかった。でも、もう何十年ものあいだ、私は自分が欠陥品なんだって思いをずっと拭い去ることができなかった。
 ずっと夢に見るの。川に小さな赤んぼうたちがゆらゆら流れていて、母親たちがそれを器用に釣り上げて、手に抱えて帰っていくのね。一度に二人釣り上げたり、子どもを一度連れ帰ってまたそこに足を運んだりする人もたくさんいた。中には友だちとぺちゃくちゃ喋りながら、足でひょいひょい釣り上げる人もいたわ。その中でね、私だけはどうしても赤んぼうを捕まえられないの。私が水のなかに手を入れると、一瞬で水が赤く染まって何も見えなくなるの。みんなどうしてあんなにも簡単に捕まえているんだろうって不思議に思いながら誰かのやり方を真似てみたり、いろんな道具を使ったりするの。でも、赤んぼうは私のところになんか来たくないみたいに、するすると流れていってしまう。そうやって私はどんどん年老いて、周りで赤んぼうを釣ろうとしている人たちはどんどん入れ替わるの。若くて綺麗な女性たちに。それでね、彼女たちが私を見て笑うのよ。あんなおばさんのところになんか行きたくないわよねって。そんなふうに自分の赤んぼうに語りかけるようにしながら、私を笑うのよ。そんな地獄のような夢を、毎晩、毎晩見るの。夜中にはっと目が覚めて、そのたびに泣いて旦那に慰めてもらって、何かの罪滅ぼしでもするみたいに一生懸命働くの。
 あなたが私に起業の相談に来たことがあったでしょう。あの時ね、私ちょっとざまあみろって思ったのよ。好きな人と結婚して、子ども産んで、幸せになんかならないでって。そうよ、自分を失って、空っぽになりなさいって。子どもなんてろくでもないでしょうって。あなたを通して、世の中の子育てをする女性たちを自分の中で一生懸命引きずり下ろしたの。ほら、私は会社でばりばり働いて、子どもにかすがいになってもらわなくたって旦那に愛してもらえて、あんたたちよりもよっぽど上等な人間なのよって。最低でしょう、嫌ってくれてもいいわよ。橙子に貸したお金も、子どものために貯めていたお金だったのよ。あなたが全部使ってしまってくれたら良いのにって。跡形もなく使ってしまって、借りたお金を返せなくて、それで私はそんなの気にしないでって爽やかに笑って、あなたよりも優位に立ちたかったのよ。
 五年前に生理が完全に終わった時ね、私心底ほっとしたのよ。ああ、もう頑張らなくていいんだって。生理が来るたびに傷つかなくていいんだって。馬鹿みたいでしょう、私。五十過ぎて、まだ妊娠するかもしれないなんて思ってたのよ。それだけが旦那にできる恩返しだって思い込んで、今でも旦那の顔を見ると、罪悪感に押しつぶされそうになる」

 室田は淡々と話していた。もう涙なんて枯れ果てたのだろう。食べながら話すことなどできるはずもなく、色とりどりの華やかな浮かれた料理たちは、場違いなピエロみたいにそこで行き場を失っていた。

 「それでね」室田は顔を上げて橙子を見た。ほんの少し幸福の感情がそこに回復していることを見出し、橙子は安堵した。

 「二年前、偶然黒田さんに会ったのよ。会社の交流会で。本当にびっくりしちゃった。あの人もバツイチで、結構盛り上がっちゃったのよ。ほらあの人、学生時代からの彼女と結婚したじゃない? 当時の私はそれであの人への思いを諦めたんだけど、十年前に別れたんだって言ってた。そこからはもう止まらなくて。ちゃんとけじめだけはつけなきゃって、旦那を裏切ることになるからって、ちゃんと関係がプラトニックなうちに旦那に洗いざらい説明したわ。あなたのことは好きだけど、一緒にいるのがつらいんだって。今までのことを謝って、若い奥さん見つけてねって。それで黒田さんといると、私は一人の人間として存在を許してもらえる気がするの。だってもう今さら子どもは産めないわよ。若くてぴちぴちした肌もどこかへ落としてきてしまったわ。それでも彼は、彼と私の時間は、それだけで完結性を持った平和な時間なの。私いま、やっと幸せになったのよ。こういうこと、橙子にこうして言えるようになったのよ。こういうのってただの自己満足だし、あなたを傷つけるかもしれない。まあでも、これまであなたの嫁姑問題や夫婦問題なんかを散々聞いてやったんだから。これでおあいこよ。どう、私のこと嫌いになった?」

 いえ、と橙子は言葉を探して懸命に首を振った。室田は昔から、精神的に成熟している人なのだと思っていた。女性としても、ビジネスパーソンとしても、人間としても、彼女には逆立ちしたってかなわないと思っていた。仕事ができて、要領が良くて、悟りを開いているように穏やかで。ずっと橙子にとって雲の上のような人だった。そんな彼女が、いま橙子の目の前で憑きものが落ちたような晴れ晴れとした顔をして笑っていた。

 「なんていうか、室田さんに親近感がわきました。何十年も付き合っていて、こんな言い方おかしいけれど」橙子はやっとそれだけ言った。

 「そう、よかった。私も人間なのよ」

 その時、ただいまあ、と計ったようなタイミングで凜花が研修から戻ってきた。

 「料理、温めなおしますね」橙子は席を立ち、もう一度エプロンをつけた。

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(A5’-3)ここにしかできないことなんて

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