(A5’-4)明けたかと思う夜長の月明かり【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 実は三ヶ月ほど前、橙子の会社はとある大手の広告代理店から打診を受けていた。政府の方針によって女性の雇用を急ぐ企業から、女性に向けた採用広告を制作する依頼が殺到しているのだそうだ。そこで、その会社は実際にタレントから一般人まで幅広い肩書きや経歴を持った女性を一週間ほど企業に派遣して、その社風や働きやすさ、やりがいや福利厚生の充実などをレポートしてサイトで配信するサービスを開始した。これが大当たりし、逆に深刻な人手不足に陥っているという。橙子の会社に打診が来たのは、その企画のスタッフ派遣とレポート作成だった。

 「女性の自分らしさを理念にしている御社にぴったりだと思ったんです」と、わざわざ橙子の会社に出向いたその会社の担当者は言っていた。実際にそのとおりだと橙子は鼻高々で思った。やっと私の会社が認められるときが来た、と。

 まずは三ヶ月間、お試しとしてサポートを受けながら業務をこなすことにした。請け負った額は時給換算にすると最低賃金を下回っていたし、仕事の量も不安定だったけれど、初めての大手との契約の可能性に橙子は舞い上がった。内職よりはずっといい。勤務時間も一日に三時間ほどだった。仕事の内容だって、会社の理念に合っている。これで、もやもやとした気持ちを抱える全国の主婦を第一線に引っ張りあげられるのだと思うと、わくわくした。最初のうちは橙子を含めた会社のスタッフたちで、二ヶ月目からは知り合いに声を掛けたり地元の新聞で採用募集をしたりして、スタッフを増やした。彼女たちに企業での立ち居振る舞いを研修し、企業に派遣した。これが事業のぶれ続ける株式会社Oneselfの中心事業になる、と橙子は確信していた。

 「残念ですが、やはり」と言いづらそうな表情で担当者が橙子に引導を渡したのはついこのあいだのことだ。橙子の会社の派遣するスタッフは、控えめに言ってもミスを連発していた。凜花ともう一人のスタッフの評価は高かったが、会社全体としては散々だった。会社につけ爪をして行く者、幼稚園からの呼び出しがあったと途中で帰ってしまう者、健康のために弁当を持参しているからと食堂のレポートをすっぽかす者、広告制作とは関係のない企業秘密を熱心に聞き出そうとする者。おまけにレポートもただの感想文で、企業の魅力的な点を紹介しているとは言えなかった。報酬も差し引かれ、橙子は三日と開けずに本社に謝りに行く始末だったのだ。

 「予算のためとはいえ、実績もない小さな会社にお任せしたのは間違いでした。逆にうちにはマイナスになってしまいましたよ。自分らしく働いていただくのは結構ですが、主婦が空いた時間に遊び半分でやられると困るんです」

 最後の席に同席していた担当者の上司がそう言い放った。その瞬間、橙子の会社は切られたのだ。三ヶ月間に費やした採用費用や研修費用は水に消え、そのあいだに手が回らなかったセミナーの講師たちは離れていった。そして、せっかく新しく採用したスタッフたちにもやめてもらわなければならなくなった。彼女たちには家庭があり、稼ぎのある夫がいて、急を要して金が必要な立場ではないのがありがたかった。一歩間違えれば、橙子は軽い気持ちで何人もの人を路頭に迷わせることになったかもしれなかったのだ。けれど、今回の失敗要因も恐らくはそこにあった。彼女たちは一生懸命やってくれた。新しいことを学び、新しい場所で期間限定の人間関係を作ろうとしていた。けれど、彼女たちは仕事を生活の第一にはしていなかった。朝は子どもを幼稚園に送り、夕方には買い物に行き、PTAに参加し、家で緊急の用事があれば夫ではなく彼女たちが駆け付けねばならなかった。仕事の優先順位は低かった。そうして株式会社Oneselfは、仕事をなくした。凜花に研修に行かせているのも、次の新しい事業を見つけなければならないからだ。橙子はその日、あまりの悔しさと恥ずかしさと無力感で頭の中が蒸発してしまいそうだった。十年もやって。十年もやって、まだここなのか。何が女性の自分らしさだ。

 「そう、それはしんどい思いをしたね」眉を曇らせる室田の首は傾いでいた。

 「バカみたいですよね、ほんと」凜花が自嘲的な笑みを浮かべた。

 「あたしね、内定もらったの、全部大手の企業なんですよね。今回のところとは違うけど、広告会社もある。でもね、今回のことでもう大手に行く気がなくなっちゃって。もちろんうちの会社が悪いんですよ。それはわかってる。一般の会社員とかに比べて仕事の質が良くないのも。ビジネスの意識だって低かった。でも、じゃあ子どもが熱出したらお迎えは誰が行けばいいんですか。誰もPTAの役員をやらなくなったら、学校がそのスタッフを雇ってくれるんですか。毎日外食するお金を誰かがくれて、それで家族が健康を損なっても誰かが保障してくれるんですか。違うでしょう。日本の社会って、そんなにもキチキチしてないと認めてもらえないんですか」そこで凜花は一旦トーンダウンした。

 「でもそんなこと言ってるあたしが、きちんとしないスタッフに誰よりも苛ついていたこともわかってますけど」

 「凜花ちゃん、落ち着いて」室田が久しぶりに笑った。

 「ほんと、世の中の新入社員たちはどうしてあんなにも無防備に、飄々として会社に入っていくんだろう。バカなの? あたし、もう会社って組織で働ける気がしない。ていうか、日本社会向いてないのかも」凜花がはあっと大きくため息をついた。

 「自分らしさってなんなんだろうねえ」室田が誰に問うでもなく言った。

 自分らしさ。会社を始めてからこれまで、何度となく口にしてきた言葉。けれど改めて考えると、自分らしさという言葉には十年かかっても捉えきれない側面があった。

 「自分のやりたいことを、やりたい時にやりたいようにやって生きるってことじゃない?」凜花が右斜め上を見つめながら言う。

 「子どもとか産んだら一時的にやりたくないことも出てくるのかもしれないけど、そういうのも含めて。自由にする代わりに選択の責任を負うっていうか」

 「なるほどねえ。じゃあ凜花ちゃんは今、自分らしく生きていると思う?」

 「思うよ」凜花が自信ありげに顎を上げる。「だってうちの親、進路とかにあれこれ口出ししたりしないし、あたしが全部自分で決めてきたんだもん。そういう点ではありがたいよね」

 「でもあなた、どこかで親の期待に応えるために頑張ってる、みたいなこと言うじゃない」橙子は娘が満点のテストを嬉しそうに持ってきた姿を思い出していた。

 「そりゃ褒めて欲しいから。多少は親の期待を読むよね。ただ、別にしたくないことをしてるわけじゃないから。あくまで自分のしたい範囲でやってるつもり。で、室田さんは? 自分らしいって何だと思います?」凜花は室田の方に少し身を乗り出した。

 「そうねえ」室田が顎に手を当てて考えている。

 「凜花ちゃんが言っていることも一理あると思う。私にとっての自分らしさは、自分の存在そのものを好きになるってことかな。何かができるとか、何かを持っているとか、そういう要素が一切なくなっても自分を好きでいられたら、本当の意味で自分らしく生きているってことなんだと思う。でもそれは多分、誰かを無条件に愛することにも似ているのかも。自分らしさって、案外一人じゃ成り立たないのかもね」

 かららん。ころろん。窓際のカーテンレールに吊るされた木作りの風鈴が、澄んだ川の中で回り続ける水車のように涼し気な音を立てた。それは、旅立つ教え子にいつまでも手を振り続ける教師のように、移りゆく季節へのエールと、秋へは一緒に行けない寂しさを滲ませた音色だった。夜の風がひんやりと頬を撫ぜる。太陽が姿を見せる時間は六月の夏至の日からどんどん少なくなっているはずなのに、九月になるとぐんと夜の存在感が大きくなる。闇の色が濃くなり、そのぶん月明かりが異様なほどに明るく感じられ、あたりの空気がぴしりと引き締まる。

 「明けたかと思う夜長の月明かり、だっけ?」室田が風鈴を眺めながら言う。

 「漱石でしたよね、確か。さすが、言い得て妙ですよね。電気、消しましょうか」橙子の言葉に、凜花がさっと立ち上がって電気のスイッチを押した。窓から入る風がカーテンをそよがせ、雲一つない空に浮かぶ大きな月が、下から眺める六つの瞳にその分身を映していた。自ら光を放つわけではないその星は、昼間は直視できない太陽の明るさを夜になってから教えてくれる。

 「明るいねえ。秋の月が特別に綺麗なのか、月の輝きはいつも同じで、人は秋になると月を見上げたくなるのかどっちなんだろうね」橙子は言った。

 「夏目漱石ってさ、”I love you”を『月が綺麗ですね』って訳したんでしょ。古き良き日本だよね」凜花が持ち合わせの漱石辞典からエピソードを持ち出し、会話に加わろうとする。

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(A5’-5)新しい何かが始まる予感

ブログ運営者

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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