(A5’-5)新しい何かが始まる予感【長編小説】『少女が大人になるその時』

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次
「自分らしさの話ですけど」橙子が思い出したように呟いた。途端、室田と凜花が橙子のほうへ顔を向け、月を映す鏡が六つから二つになる。
「こんなふうに、太陽と月の流れとか、季節の巡りに肉体と精神をちゃんと寄り添わせて生きること。それが私の思う自分らしさかな」
「橙子、あなた今のシチュエーションでそういう答えはずるいわよ」
「わかっています。今日のところはこれで勘弁してください」
あはは、と静かな夜に三人の女の笑い声だけが妙に浮いたように生まれ、すぐに風に流されていった。
「ね、思ったんだけど」凜花が自然と声を落として言った。
「うちの事業のことだけど、こういうのを見せる方向で行くってのはどうよ」
「どういうこと?」橙子と室田の声が重なった。
「うまく言えないんだけど、今って料理教室とか、セミナーとか、完成したものや人を見せて、その中から自分の理想像を見つけて、そこを目指す感じじゃない? そういうのって大手企業のほうがしっかりとマニュアル化できるし、講師の質や講義内容もいい。それで今、こんなふうにどっちつかずになっちゃってるわけじゃん、うちの事業は」凜花は目の前の箸やナプキンを使いながら懸命に説明していた。
「でもね、Oneselfの理念である『自分らしく生きる』ってことでさえ、十年会社やっていてもぶれるし、こんなふうに人によっても違うじゃない」
うなずく二人。
「だから、そんな簡単なことじゃないんだよ。自分らしく生きるって。到達なんてできないんだって、場合によっては一生かかってもさ。それは、綺麗にパッケージされて、学習教材みたいにその辺に転がってる良さそうなものをお金で買えばいいってわけじゃないんだと思う。つまり、今考えついただけだからあたしも頭のなかでうまく整理ができてないんだけど」凜花の目には、もう月は映っていない。代わりに、月明かりが彼女の頬を照らす。
「そういう一人ひとり違う『自分らしさ』ってやつを、一人の人間が苦労して獲得しようともがいたり、努力したり、その努力が報われたりする瞬間をドキュメンタリー的に見てもらって、その生き方の姿勢みたいなものが世の中の人に行動のきっかけを与えるようなほうがいんじゃないかな。ほら、松野さんいるじゃない、心理学っぽいセミナーの講師やってくれてるさ。あの人、最近は広告の仕事やってもらってたけど、あの人だってずっと悩んだり、勉強したりしてるじゃない。でも、セミナーで見せるのはそういう部分じゃない。見せてもいい部分だけ。そりゃ裏の努力とか、製品ができるまでの過程とかを見せることが無駄だとか甘えだって考え方もあるよ。でもうちの場合は、そういう泥くさい部分も見てもらって、ちゃんと人間らしく生きた結果として今があるってのを、その過程も含めて見せていくほうが共感してもらえるんじゃないかな。社会の表に出てくる部分は、人間がありのままに生きていこうとするには綺麗すぎて、汚いところや弱い部分は見せちゃいけないのかと思っちゃうもん」
わかるかな、わかりにくいよね、と凜花が室田と橙子の目を交互に見る。
「いや、私はすごくわかるよ。というか、なんか今の言葉に安心した」室田が言う。
「確かに人間、頑張れないこともあるし、頑張ってもどうしようもないこともあるし、自分自身がどうしようもなく惨めに見えることもある。それって、自分の目から見える周りの風景があまりにも綺麗すぎるからなんだよね。こんなふうにグジグジ悩んだり、汚いことを考えたり、だめな人間は自分だけだって思っちゃう。だからそれを隠したくなる。人間誰しもそんな部分はあるなんていかにも事実っぽく語られるけど、そういうのは実際に目に見えてこないからいつまでも信じられなくて、自分ばかりが美しい人間社会の爪弾きにされたような気分から逃れられなくなる」
そう話す室田を前に、橙子は室田と二人でいた時に彼女から聞いた話を思い出していた。
「そうそうそういう感じ、さっすが室田さん」
「でも、誰も見せたくない部分をどうやって見せてもらうの?」橙子は自分自身に巣食う黒い血塊のような存在を思いながら言った。
「そのドキュメンタリーの主人公になる人は、誰よりも強い劣等感と孤独感を抱えながら、同時に世界中にそれをさらけ出せるだけの強さを持っている人じゃないとだめなんじゃない」
「ああああ」凜花が頭を抱えた。後頭部で縛った髪が肩越しにテーブルに落ちる。
「そこまで考えてなかった。ほんとだね、お母さんの言うとおり。結構良いアイディアだと思ったんだけどね。あたし、まだ人に勇気をあげられるほどは挫折も成功も経験してないしなあ」
確かに良いアイディアだと橙子も思った。理論的には。けれど、何よりもまず自分自身が内側の弱さを社会にさらして生きていけるのかと言われると、恐怖で身が震えた。橙子の中に深く根付く闇は、橙子がその存在をそのまま闇の中に隠して生きていきたいと思うほど醜いものに育っていた。大したものでもないが、それでも橙子にとっては大切なたったひとつのプライドという名の扉が、それを全力で拒んでいた。
いくら違うと自分に言い聞かせても、母親に捨てられたのだという自己不要感。
出来の良い兄と比べられながら、女にしかできない技術を伸ばすことで、父と祖父母からの評価を埋めようとした劣等感。
つかの間の安心感に包まれて何の疑問も持たずに結婚した後の自己崩壊。
やることなすことすべてに文句をつけられる無力感。
母親と妻の役割に埋もれた自己不在感。
反対を押し切って始めた会社でさえなかなか思うようにうまくいかない不安、苛立ち、自己否定感。
見せたくない見せたくない見せたくない。自分にさえ知られたくないほどの、自分のこんな汚いところは。
「私、いいよ」いつの間にか流れてきた雲で月明かりが隠され、さっきまでよりも薄暗くなった部屋で誰かが言った。
「え」闇から戻ってきた橙子には、それでも部屋は明るすぎるように思えた。
「その凜花ちゃんのアイディアに、私のこと使ってくれていいよ。友だち減るかもしれないけど、黒田さんと橙子は少なくとも私のこと受け入れてくれるわけだし」そう言って室田は歯を見せて笑った。
「私、まだ罪悪感とか、劣等感とかあるし、街で妊娠した人見かけると心がざわつくのよね。そんなふうに思っちゃいけないって思うんだけど、どうしようもなくて。不妊の人、最近たくさんいるでしょう。そういう人たちと、憎しみの増幅じゃなくて、もちろんそれを押し込めるでもなくて、いい具合に傷の舐め合いができるように私がモデルになってあげよう。その代わりに、一年間の期間限定。それまでに早く次の人見つけなよ。あと、プロデュースは凜花ちゃんにやってもらいたいな」
室田はそこまで一息に言うと、斜め前でまだ要領を得ない様子の凜花にワインを注ぎ足した。橙子は何も言えなかった。
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(B5-1)余暇的部分に成り立つ仕事
書いた人
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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