(B5-1)余暇的部分に成り立つ仕事【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 自宅の最寄り駅を上がると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。どうりで地下鉄の中が独特の湿気に満たされていたわけだ、と橙子は合点する。自転車で飛ばせば大して濡れることもないだろう。息を切らせながら家に帰ると、孝太郎が知らん顔で先にビールの缶を開けていた。橙子が帰宅したことに努めて気づかないふりをしているようにさえ見える。椿は和室のほうで呆けたようにテレビの画面を見つめていた。孝太郎は頑として認めないが、最近の椿はボケが進行しているような気がしてならない。

 「ただいま。遅くなってごめんなさい。すぐにご飯作るね」橙子はスーツから着替えもせずに、エプロンを付けて冷蔵庫を開けた。どうしてこれが当たり前なのだろう、と思わないわけではない。孝太郎の仕事は、その他の家庭的役割を少なからず免除する。橙子の仕事は、家事をこなした上の余暇的部分に成り立つ。理由は、孝太郎は好きでもない仕事を我慢して続けて橙子たちの生活を支えているからであり、橙子の方は好きで仕事をしている上にあまり収益を上げられていないからだ。当然といえば当然なのかもしれない。日本では、仕事を楽しくしている者は何らかの罰を受けなければならないのかもしれない。けれど、何を思ったところで無駄だということは頭ではわかっていた。

 頭のなかで五秒ほど料理のスケジュールを確認し、調理に取り掛かった。冷蔵庫から鶏肉を取り出し、焼き始める。昨夜のうちに切って塩コショウ、醤油で下味を付け、五種類ほどのスパイスとヨーグルトをよくもみ込んでおいたのだ。数年前に凜花がレシピサイトで見つけて作ってから我が家の定番になったタンドリーチキンだ。そのあいだにチンゲン菜とベーコンの中華スープを同時進行で作る。続いて冷凍の餃子を焼くあいだに、冷蔵庫から作りおきのポテトサラダときゅうりの酢の物を取り出した。食器を並べながら鶏肉と餃子の様子を見る。このタイミングを間違えて、何度鍋を焦がしてしまったか知れない。けれど、こんなふうに同時進行でものごとを進めないことには、到底日々の業務は終わりっこないのだ。椿のぶんの白米をよそい、椿に声をかける。毎日酒を呑む孝太郎のおかげで、九石家のおかずは種類を多くしなければならなかった。それはすなわち、橙子の負担増も意味していた。こんがりと黄金色に焼けた鶏肉は、スパイスの効果も相まって食欲をそそる。橙子は台所で思わず一切れつまみ食いをし、皿に盛り付けた。まだ会社から帰っていない剛志と、後から食べる自分の分をよけておいた。

 「お待たせしました。スーパーが閉まらないうちに、買い物に行ってくるね」

 橙子はエプロンを外しながら、三日に一回の買い出しに出かけるべく鞄を手にした。いつもなら大急ぎでお腹にものを収めてから行くのだが、今夜はもう遅くなってしまった。それに、先ほど町田と食べたパニーニのおかげでそれほど空腹を感じているわけではなかった。

 「ん」孝太郎はテレビの画面から目を離さずに、聞こえるか聞こえないかの声で言った。

 考えるな、考えるな、考えるな。橙子は買い物に向かう車の中でぶつぶつと一人つぶやいていた。そうでもしなければ、怒りで体中の細胞が沸騰しておかしくなってしまいそうだった。何をこれほどまでに頑張っているのか、もう橙子にはわからなくなっていた。ただ毎日をこなしていくために、高校生の体育会系男子も顔負けなくらいの体力勝負を日々繰り返していた。剛志や凜花が小さかった頃よりも、あるいは大変かもしれない、と橙子は思った。だって私、もうほとんど六十歳なのよ。ふいにおかしくなり、ふふ、と笑いをこぼす。

 「期待するから腹が立つんだよ。自分にも、他人にも」いつか凜花が言っていたのを思い出す。あの子は自分で自分のハードルを上げすぎて、よく癇癪を起こしていた。そしてそれをどうにか自分の自分の枠内に捕らえるため、日々分析を重ねていた。私は今、何に腹を立てている? あの孝太郎に、いったいぜんたい何を期待しているというのだろう。幸せを信じていたあの頃の記憶が蘇ってきた。大学生で、自由と可能性と愛を信じきっていた自分。あの幸せを、橙子は心のどこかで期待しているのだ。無条件に愛し愛されたあの頃を忘れることができないために、孝太郎が時に許せなくなるのだった。でも、と橙子は思う。忘れて、許すことができたら、それで心のなかは平和になるだろうけれど、それって虚しくないのかしら。

 両手いっぱいに荷物を抱えて帰ると、ちょうど剛志が夕飯を温めているところだった。

 「あら、帰ってたの」

 「うん、今日はまだ残業が少なくて済んだよ」剛志が一丁前にくたびれた顔で言う。剛志は凜花がいなくなる二年前に係長に昇進していた。出世はかなり早い方らしいが、当然のことながら多忙を極めている。この子も、孝太郎のように散々こき使われて、出るに出られなくなって、このまま大手銀行の重役にでもなるんだわ、と橙子はぼんやり考えていた。時代は変わったけれど、人間はそう簡単に変われるものじゃない。口ではそれらしいことを言えるけれど、実際に行動に移せる人は、よほどの勇者かよほどのバカでないとできないのだ。

 「母さん、体大丈夫? 出来合いの惣菜とかでもいいのに」
 剛志は勇者でもバカでもないけれど、頭のいい優しい子だった。それは橙子にとってはあまりに十分すぎた。

 「お父さんは出来合いのもののほうが喜んだりするけどね、やっぱり家族には体のこと大事にしてほしいから。それに母さん、料理は好きだからね」

 「それで母さんが体壊しちゃ意味ないだろう。いくら体力に自信があるとはいえ」ほら、食材冷蔵庫にしまっておくから、と剛志は橙子の手にぶら下がるビニールを受け取った。ふいに重力を失った両手が、それでもまだ袋の重みを求めるかのようにじんじんと主張している。

 「じゃあお言葉に甘えて着替えてくるわ。実は母さんも夕飯まだなのよ。一緒に温めておいてくれる?」

 「わかった」

 剛志と二人で夕飯を摂るのは久しぶりのことだった。孝太郎はすでに自室に引き上げており、食器は二人分きちんと洗われていた。そう、どうしようもない亭主というわけではなかった。橙子は彼に満足することもできた。やはり、自分は夫に期待しすぎているのだろう。橙子はいつまでも満たされない、穴の開いた心をそっと撫ぜた。

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(B5-2)息子との対話その1

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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