(B5-2)息子との対話その1【長編小説】『少女が大人になるその時』

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次
「母さん、白飯はどうする?」
「夕方に軽く食べたからやめておくわ」
「あと半膳だけ微妙に残るんだけど」
「剛志食べちゃってよ」
「俺最近太って来たんだけどな。まあいいよ」普段孝太郎とほとんど言葉を交わさないせいか、剛志がやけに饒舌に感じられる。
「タンドリーチキン、すっかり上手くなったね。これ凜花の十八番だったのに」剛志が白飯を口にかきこみながら言う。
「だてに三十五年も主婦してないわよ」三十五年か、と橙子は改めてその月日の長さを感じた。
「仕事は忙しいの?」と橙子は訊いた。
「うん、今くらいの年齢が一番忙しいんじゃないかな。景気もあんまり良くないし」
「そう。でもクビになったり、会社が潰れたりする心配はないんでしょう」
「今のところはね。でも、世の中に絶対はないから。大きい組織に馴染みすぎているのも、ちょっと怖いところはあるんだけど」
「やっぱり大企業は規模が違うものね。母さんのところは、まだまだ小さいから」
「会社は大きくある必要は特にないと思うよ。大きな組織であればあるほど、その中の個人ができることは少なくなるし、考える機会も減ってしまう。どんどん専門的になるしね。それがいいことなのかどうかはわからないけれど」と言いながら剛志はテレビのスイッチを切った。
「ありがと。あなたも大人になったわね」
「俺はまだ独身だから気楽なもんだよ。同期で家庭のあるやつは大変だと思うよ。特に共働きとかだと、夫婦で分けなきゃいけないもんまで奥さんに全部の負担が行っちゃうから。母さんの時代よりも共働きが増えたのはいいことかもしれないけれど、やっぱり女の人の負担は大きいと思う。それに見方を変えれば、共働きじゃないと家計が成り立たないくらい、男の稼ぎが減っているってことだもんな。ある意味で昔よりも大変な時代だと思うよ。女の人の誰もが働き続けたいわけじゃないだろうし。極端なんだよな、国のやり方は」ごくり、と喉に鶏肉を通過させたあとで剛志が答えた。
「確かにね。私たちの世代からすれば、自由に外に出られて羨ましく見えちゃうんだけど、そういうのは押し付けなのかもしれないね」
「そういえば」剛志の話す声に、わずかな緊張感が走った。
「近々父さんにも言おうと思ってるんだけど、俺結婚するわ」
「え」突然の息子の報告に、橙子はリアクションの取り方を忘れてしまった。
「凜花がこんなことになってるから、落ち着いてからにしようとは思ってたんだけど、もうそろそろ相手の人も三十になるんだよ。いつまでも待たせるわけにはいかないじゃないか」剛志は照れ隠しなのか、うつむいて咀嚼を続けていた。
「そう。それはおめでたいわね。お父さんにも早く報告しなくちゃね」
そう言いながら、橙子は激しく混乱していた。声が表面をから滑りし、うまく焦点を合わせられないでいた。あなたまで。あなたまで私のそばを離れていってしまうの。待ってよ、置いて行かないで。お義母さんと孝太郎くんに挟まれて、私はこれからどうして行ったらいいのよ。そして、初めて椿の感情に思い当たった。ああ、お義母さんは寂しかったのかもしれない。二人の娘は次々と嫁に行き、三人目の娘は海外に出てしまい、おまけに最後の心の拠り所だった孝太郎まで、橙子に奪われてしまったように感じたのだ。それに、椿は橙子にとっての会社ように、それ以外の生きがいのようなものがなかった。お義母さんは、寂しくて、かまって欲しくて、存在を示したくて、意地悪していたのかもしれない。そう思うと、椿に対して慈愛にも似た感情が芽生えた。
「これでやっと、伯母さんたちからの結婚コールから解放されるよ。茉莉花さんだけは怒るかもしれないけれど」
「そうね、凜花よりも遅かったものね。あの子も私と同じで、卒業してすぐに結婚したから。二十三歳で結婚って、今どき早いほうよね」
凜花のことを自然に話せる相手は、もう剛志くらいなものだった。孝太郎と椿は、無言のうちに凜花の失踪を橙子のせいにしたがっていた。そのせいで橙子は、家の中では努めて凜花の話題を口にしないようにしていたのだ。
「そうだなあ。あいつが父さんくらいの歳の町田さんと結婚するって言った時は、ちょっとびっくりしたけど。不倫相手でも寝取ったんじゃないかって。まあでも、町田さんはいい人だったよな。あの人ほど凜花をまっすぐに好きでいてくれた人はいないんじゃない。凜花は変に大人びていたし、同世代の男じゃきっと扱いきれなかったろうから」
剛志が過去形で話していることに、橙子は気づかないふりをした。そして、まだ現在形で凜花を想う町田と自分のことをそこに映してみた。
「母さんもびっくりしたわよ。でも結婚生活はお付き合いとは全然違うからね。恋人同士のときは素敵に見えた彼の落ち着いた話しぶりも、結婚してみるとその無口のせいでコミュニケーションが難しかったりするしね。優しく見えた言動も、ただの無関心かもしれない。その優しさは、自分だけに向けられるわけじゃない。誰か他の人に向けた優しさが、背中から見ると棘だらけのコートになるかもしれない」橙子は自分の頭のなかに明らかに孝太郎を思い浮かべていた。
「凜花、結婚しても幸せになれなかったのかな」ぽつり、と剛志が言った。
「あんなに父さんの反対を押し切って結婚したんだもの。意地でも幸せになるでしょうよ、あの子の性格なら」
「でも町田さん、ちょっと束縛するようなところがなかった? 男の俺から見ると、凜花への執着がちょっと強いように見えたんだよ」そう言う剛志の言葉に、先ほどのやせ細った町田が嫌でも脳裏に浮かぶ。
「じゃあ、凜花がいなくなったのは町田さんのせいってこと?」橙子はそれを言葉にしてしまった瞬間、自分の心に沈んで動かなくなっていた、錆びついた鉄のような塊が少し動いたのを感じた。
「そこまでは言わないけどさ、そう思ったら母さん楽になるんじゃない?」だめだ、と橙子は思った。この子には全て見抜かれている。
「いいわよ、気を遣ってくれなくて。凜花と一番長く時間を過ごしていたのは私。あの子のSOSに気がつけなかったんだから。一年と三ヶ月、毎日のように考えて、考えて、それでも答えが出ないんだもの。どうしてあの子はいなくなったんだろうって。凜花がそこまでして逃げなくちゃならなかったものは、いったい何なんだろうって」
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(B5-3)息子との対話その2
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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