(B5-3)息子との対話その2【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 「母さんさ」剛志が空になった皿の上にかちん、と軽く音を鳴らして箸を載せた。

 「母さん、俺が小学校の時にいじめられてたの、気づいてた?」まるでたばこでも勧めるかのように、さらりと剛志が言った。

 「剛志が? いじめられていた? 小学校の時に?」橙子は、息子による本日二度目の突然のカミングアウトに、ただ言葉を繰り返すことしかできなかった。

 「うん。今思えば、ただの子どものいたずらに毛が生えたみたいなものだったんだけど。でも当時はつらかったよ。ほら俺、色が白いし、小学生の時は痩せてたから。子どもってそういう、目で見てわかりやすいところから攻めてくるじゃない。まだ多様性なんて言葉も知らなくて、それなのに教師は言葉だけで『個性を認め合いましょう』なんて俺らに押し付けてくる。俺はなんとなく察しがいいから、道徳の標語で賞を取ったりしていたじゃない。それが気に食わないやつもいて。だから俺はよく勉強したし、本も読んだんだよ。別に好きだったからじゃなくて、それくらいしかやることがなかったの」

 「どうして言ってくれなかったの。そしたら母さん、全力で剛志を守ったのに」

 「だろうね」ふ、と笑った顔を下に向けて剛志は言った。

 「だから言えなかった。母さん、学校に怒鳴りこみに行ったりしそうだもん。そういうのって何の解決にもならないのに。別に静かに話を聞いて欲しかったわけでもないしね。そういうことする奴らって、怖がってるんだよな。怖くて、自分の存在意義を示したくて、自分より弱い立場の人をからかったり仲間はずれにしたりするんだよな。そういうことに、俺は小学生で気づけた。ある意味であいつらには感謝してるよ。大人になっても、そういう人は決して少なくなかったから。それにさ、あの時の母さんもつらかっただろう。父さんが本局に行っている時期で、全然帰ってこなかったじゃないか。離れとはいえ、あの婆ちゃんがいたんだし、それを俺には見せないで、頑張っていたじゃない。まあ、あの時の俺は婆ちゃん優しかったから好きだったし、たまに母さんに八つ当たりされている感じがしないでもなかったけど」

 橙子は何も言えずに剛志の置いた箸を見つめていた。視界の中にいる剛志が、左から右へとどんどん流れていった。そして、左からはまた新しい剛志が出てきた。ある時点からそれは、泣いている小学生の剛志になった。小学生の頃、彼はどんな顔をしていたんだろう。母親の橙子に何を伝えようとしていたんだろう。自分のことに必死で、感情の処理や孤独な子育てに必死で、剛志のことを全然見ていなかったのかもしれない。

 「それに、男の俺が、いじめられているなんて相談を母さんにするなんて、格好悪いじゃない。それが一番の理由。だから気にしないで」

 目の前の息子が、グレることもなく、塞ぎこむこともなく、こうして真っ当な大人として目の前に座っているのは、あるいはただの幸運だったのかもしれない。

 「私、全然気づかなかった。剛志は学校でもよくできて、みんなに慕われているんだと思っていた。ほらだって、ユウトくんとかソウスケくんとかナツミちゃんとか、よく遊びに来ていたじゃない。あの子たちは友達じゃなかったの」橙子はかつて家の前でボール遊びをしていた少年少女を思い出しながら言った。

 「ナツミちゃんは、凜花の友達だと思うよ。俺の家さ、庭が広いじゃんか。ボール遊びできる場所って少なかったんだよ。それに、家に来れば婆ちゃんがお菓子をたくさん用意してくれたし、俺たちみんなにカード買ったりもしてくれたから。そういう時だけ、あいつらは友達になってくれたんだよ。そんな名前だったっけ、もう覚えてないや」ま、それももう過ぎたことだよ、と爽やかに剛志は言い、食べた食器を流しの方に持って行った。

 「ごめんなさい」橙子は流しの方で水をじゃあじゃあと垂れ流しながら食器を洗う剛志へ向けて言った。

 「ん?」剛志は今しがた話したことなどなかったことのように、けろりとしていた。

 「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい」

 生まれたくなかった? 母さんがいないほうがよかった? 私はどうしたらよかった? 言葉にならない問いが、頭の中で洪水のように溢れ出る。そしてそれは、剛志の流す水の音にかき消された。

 「だから謝らないでって。俺はそこまで繊細すぎるわけでもなかったし、中学からは普通だったから。たまたま運がちょっと悪かったんだよ。そういうのも今取り戻しているわけだし。出世コースまっしぐら、そして婚約。俺、今幸せだよ」

 自分の分の食器を洗ってしまい、剛志は再び食卓に戻ってきた。橙子の皿には、中途半端に残った黄色い鶏肉がだらりと死んでいた。

 「それよりも凜花のほうが心配だったな。あいつは俺よりも空気が読めて、大人びて、それでいて家の中ですら自分の存在を否定していたから。感受性の塊みたいなものだったよ。俺、結構かわいがっていたつもりだったけど、いつも軽くあしらわれる感じで、あいつの心のなかを見たと思ったことはなかった。それであの万引き事件だろ。正直言って、あの後あいつと上手く話せる気がしなかったよ。で、あのとき母さんは凜花の唯一の人だった。自信持っていいんじゃないかな。母さんはあいつを救ったよ」

 確かに剛志と凜花はあまり言葉を交わさなかった。決して仲が悪いわけではなかったが、十歳離れた兄妹としての適切な距離のようなものを注意深く保っているようだった。

 「じゃあどうして今、凜花はいなくなったの? かつての居場所だったはずのこの家にも、新しい居場所になったはずの町田さんのところにも」橙子は、もう使い古されたバスタオルのようにごわごわとしたその言葉をまたも繰り返した。

 「それを俺に聞くかな。母さんのほうがわかっていると思うんだけど」

 「ごめんなさ」

 「あくまで俺の推測だけど」剛志が橙子を遮るように言葉を紡ぐ。

 目の前にいる男は、本当に私の息子なのだろうか。そんな謂われもない思いが橙子に芽生える。こんなに逞しく、立派な物言いをし、それなりに中年の体つきをして、頼りがいのあるふうに話す男は。そしてこの自分は。自分の肉体はもう六十年近くこの地上で細胞を作り続け、重力に従ってきた。この容れ物だけが私の心を置いてどんどん先に進んでいるような。

 「リンクしすぎたんだよ、あいつは」剛志の言葉にはっと我に返る。

 「中学の時の凜花は繊細で、いい子ちゃんで、いつも周りに自分を合わせようとして、それでいてしっかり自分の芯は持っていて、そういうのが膨張して息が詰まって、あんなふうに形に出ただろう? そして、その時の凜花を守ってやれるのは、この家で母さんだけだった。あの時の俺はまだ会社に馴染むためになんとか踏ん張っていたところだったし、実を言うと何回か産業カウンセラーのところにも行っていた。まだ社会に出たこともない小さな妹の犯したささいな罪にかまってやれるほどの余裕はなかったんだ。そうして凜花にとって、母さんは唯一無二になったんだ」

 剛志は淡々と語りつづけた。感情の動きが少ないと思っていた彼は、それらを上手く表現できずに自分の中で何度も消化不良を起こしていたのだ。誰にも気づかれることなく。

 「そうして母さんは、無意識のうちに凜花の中に種を植えつけたんだ。やりきれなさとか、九石への憎しみとか、誰かに認めてもらいたい気持ちとかを。そして凜花はそれをうまく自分の中に根付かせ、育てていった。そうすることが母さんへの恩返し、そして自分自身のやり直しになるんだと信じて。その結果が今の状況なんじゃないかな」

 「それは、私の復讐の肩代わりをあの子にさせたってことなのかしら」橙子は夕方からずっと頭にこびりついていた町田の言葉を繰り返した。

 「そこまで過激なものかどうかはわからないけれど」剛志は口を困ったように曲げた。

 「でもこれも全部あくまで俺の推測だから。問題はもっと別なところにあるのかもしれない。じゃあ明日も仕事だからそろそろ寝るわ。母さんも風呂入って早めに寝なよ」

 そう言い残し、剛志は雨の湿気を吸い込んだ立て付けの悪い古い木のドアを開け、自分の部屋に戻っていった。

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(B5-4)その目はなにも見てはいなかった

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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