(B5-4)その目はなにも見てはいなかった【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 部屋の中が急に静かになる。家族みんなで座ると狭苦しい食卓も、一人では持て余してしまう。こつ、こつ、こつ。いつもは気にならない時計の音がやけに大きく響いていた。春の冷たい雨が家の屋根、壁を打ち付けては流れていく。こんなにも水の勢いは激しいのに、橙子の心の中に留まったままの石油のような黒いどろどろは一向に流れ行く気配を見せなかった。今のままで心が晴れ渡ったら、きっと太陽の光で汚いところまで丸見えになってしまうだろう。克服したはずだったのに、と橙子は思う。この数年間で、橙子の中に蜘蛛の巣のように張り巡らされた絡まった思いは、少しずつ解けていたはずだった。でもそれは、糸の別な場所をさらに絡ませていただけだったのかもしれない。何のために頑張ってきたのだろう。事態が少しでも改善するのでなかったら、いったい何のために私は。

 橙子は何もかもを覆い隠すどす黒い雨雲に感謝した。

 気が付くと、中学校の制服を着た凜花が、橙子の斜め向かいに座っていた。彼女は優しかった祖父の遺影を抱えて静かに泣いている。瞬間、彼女自身が遺影を彩る献花になった。次のまばたきで、凜花の制服は夏服に切り替わり、恐ろしい目で橙子の隣の席を見つめていた。そこには今よりもまだ少し髪が濃く、しわも少ない孝太郎がいた。

 「それに、娘のためとか言ってお父さんがちゃんとあたしを見てくれたこと、ある? 優しいふりして、自分の身を守ろうとしてるだけでしょ。お父さんなんて、あたしがエンコーしてたとしてもあたし自身のことなんて心配しないくせに」

 「お前、そんなことしてたのか」

 「してやるわよ、明日にだって。あんたなんて大嫌い」

 大嫌い、大嫌い、大嫌い。その言葉だけが、橙子の耳の奥で何度も繰り返される。

 橙子の左手が掴まれた。小さな手だ。はっと顔を正面に向けると、まだ小さな剛志が食卓によじのぼってミートスパゲティを橙子に差し出していた。口の周りは真っ赤に染まっている。それはミートソースの色ではなく、血の色だった。

 「ひっ」橙子は思わず手を引き、声をあげる。ぐにゃりと剛志の輪郭が歪み、顔の部分が周人に入れ替わった。

 「あい、あい、どーぞ」舌っ足らずな物言いをしているものの、その赤んぼうの声も周人のものだった。次に赤んぼうの周人にスパゲッティを差し出されたのは、中学校の制服に身を包んだ椿だった。

 「はい、ありがとうね。あんたには食べさせるもんか」椿は猫なで声で周人をあやし、橙子を睨みつけていた。

 「やめて。やめてやめてやめて」橙子は耳を塞ぎ、目を半分つむりながら家の外に飛び出した。激しく降る雨がみるみるうちに橙子の体を濡らした。

 「ううう」涙が流れているのかさえわからない。

 その場にうずくまり、橙子は凜花とのいつかの会話を思い出していた。

 「ねえ、お母さん」その時、娘は生まれてはじめてそんなふうに私を見た。もうやめようよ。疲れたよ。

 「例えばね」あの時、娘は確かこんなふうに言っていた。

 「ほんの少し欠けたところのある透き通った美しい水晶と、ありふれたやくざな石ころがあったとして、科学者の出す数値に置き換えたら水晶のほうが美しいのかもしれない。でもね。あたしにはもうその水晶が、醜くて醜くて見ていられないの。それが例えほんの小さな、地球上に存在する物体が有せずにはいられない程度の物理的誤差の範囲内だったとしても。だってそれは、仮にも水晶なんだよ? 欠けている水晶なんて、かつてのアイドルが年を食ってテレビに出てくることくらい、哀れで醜い。あたし、本当は石ころになりたかったのかもしれない。そんなの今さらだけど」

 そう言う娘の視線は手元のキーボードに向けられていた。いつもは小気味良くかたかたと規則的な音を奏でるキイに半端に載せられた細く美しい指を。あるいは彼女の目は何も見ていなかったのかもしれない。あらゆる情報と人々の感情によって蝕まれていく自分の脳みそを、内側からため息混じりに眺めていたのだろうか。

 「何をやめるの? 仕事がつらかったらやめていいのよ。お母さんはあなたの幸せが一番なんだから。お母さんが守るからね」その時の橙子は、何もわからずに娘を思っていた。とにかく愛情さえあればなんとかなるんだと信じて疑わなかった。

 ああ、と橙子は思う。凜花が私の前からいなくなるのは、当然のことだったんだ、と。だっていまだに、私はあの子の愛し方を心得ていないんだもの。私が私を愛せていないように。愛して、忘れて、許せていないように。人生はこんなにも難しい試練に満ちているのだ。橙子はもう、何もかもが馬鹿らしくなった。私がもっと我慢強かったら。もっといい嫁だったら。いい母親だったら。自分の感情くらい、自分でどうにかできていたら。子どもたちを巻き込むこともなかったのかもしれない。もうやり直せない。子どもたちのことをちゃんと見てやりながら、その繊細な感情に気づいてやりながら育ててやっていたら。もう何もかも、手遅れ。すべては私のせい。

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(B5-5)もうひとつの世界

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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