(B5-5)もうひとつの世界【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 気が付くと、橙子はまた台所に戻っていた。誰が生けたのだろう、食卓の上に花が飾ってある。薄い紫色の花が一本だけ。百合子ならもっと派手で豪華に生けるはずだ。それに、紫は椿の嫌いな色ではなかったか。

 かちゃ。何かのネジが外れるような、プラスチックでできたティーカップのぶつかるような、小人の通る扉が開くような、そんなささやかな音がした。じじじ。続いてカメラの焦点をあわせるような、ゼンマイが慎重に移動するような音。ぽん。ポップコーンが弾けるような音。

 たららんらんらんたららんらんらん。それまでの予兆的な物音をすべてかき消すように、部屋の中に軽快な音楽が鳴り出した。音の根源は台所から廊下に続く扉の上に取り付けられている仕掛け時計だった。それはひどく大きな音で『イッツ・ア・スモールワールド』を鳴らし続け、橙子は誰かが目を覚まして起きてきてしまうのではないかとさえ思った。

 橙子はぼんやりと音のするほうを見ていた。この時計は、長針が十二のところに来るたびに、『イッツ・ア・スモールワールド』に合わせて人形たちが出てきて踊る。曲が鳴っているあいだに時計の文字盤ひとつひとつが別々に裏返る仕掛けになっており、そこから世界各国の(とは言っても十二カ国だけだったが)国旗を持った、その国の代表的な肌の色、服装に身を包んだ男女がセットで現れる。文字盤はいっぺんに十一枚裏返ることもあれば、一枚だけしか裏返らないこともある。けれど、十二枚いっぺんに裏返ることは絶対になかった。誰かが時計の裏を見張っていなければいけないのかもしれないし、世界平和への道は一進一退なのかもしれない。孝太郎はそんなふうにこの時計に解釈をつけたがっていたが、橙子はこの時計から人形たちが出てくるたびに泣き叫ぶ凜花の対応で忙しかった。たららんらんらんら、んら、ん。曲の最後の部分はいつもこんなふうに詰まってしまい、時計としてどうにも締まりがなかった。

 「僕が生まれた時に買ったやつらしいから。しょうがないよ」孝太郎は時計の代わりに弁明するように、そう言っていた。剛志は興味をそそられるらしくおもしろがっていたのに、凜花はこの時計をとても怖がった。彼女の幼い頃は、毎時零分になる前に家事をする橙子のそばへやってきて、時計が鳴り終わるまでぴたりとくっついていたものだ。

 あれ、と橙子は思う。凜花が生まれて、やっと言葉を話し始めた頃、橙子たちは離れにいたはずだった。剛志が四歳の頃から、凜花が小学校を卒業するまでずっと。それなのに橙子の脳裏によぎるのは、二つか三つの凜花が母家のほうで家事をこなす橙子にくっついている姿だった。あの頃はこちらでも離れでも二重に家事をこなしていたのだろうか。離れ? 橙子はそんなことを考えた自分を不思議に思う。うちには離れなんてなかったじゃないか。

 清水橙子は二十三歳の時に九石橙子になった。木造で碁盤目の間取りをした古風な家は、山梨の祖父母の家から嫁いできた、まだ幼さの残る橙子の心に安堵を与えた。孝太郎はもちろん、義理の両親も決して悪い人たちではなかった。姑の椿にはよく怒られたが、それも橙子がまだまだ女として、嫁として未熟だからなのだった。そんなふうに、まだまっさらだった橙子は懸命に九石家のルールを覚えた。この家における橙子の成長は、ルールの暗記と遵守の繰り返しだった。法を破れば罰せられる。それはごく当たり前の社会規則だったのだ。精神的に病んだ末にいなくなってしまった母親と、欠けた弟、そして仕事で忙しくほとんど顔を見ることもなかった父を持つ橙子は、自分はもともと失われた人間なのだと思うようになっていた。

 九石家の夫と新しい両親は、その空白を埋めてくれる存在だった。橙子はいつも不器用だった。よく晴れた夏の日に家中の洗濯をした時は、市販の洗濯洗剤はかぶれるのだと言われ、椿の作った落ちにくい天然由来の石鹸で全部洗いなおす羽目になった。庭の草抜きを早朝から一人で終えた後に椿にかけられた一言は、「土の跡が汚い」だった。椿は橙子が作った料理に「おいしい」ということはただの一回もなかったが、残されることもただの一度もなかった。「おじいさんに合わせていつも冷たい料理だから、温かい料理がうれしい」とさえ言ってくれた。舅の周人は、どういうわけか冷めた料理しか口にしなかった。それから橙子は、毎日少なくとも一品は温かい料理を用意した。

 剛志が小学校に上がる時、母親の手製のコップ入れと上履き入れが学校から指定された。その時も、裁縫の苦手な橙子の代わりに椿が途中まで縫ってくれたのだ。買い物に出ているあいだに、外に干していた洗濯物が雨で濡れるとこっぴどく叱られた。家に誰もいないのはみっともないから、と最低限の外出しかできなかった。それでも一緒に家にいてせっせと家事をしているあいだは、機嫌よくテレビを見てくれていた。アイロンがけは椿の担当だった。そんなふうに、橙子と椿は役割を分担していた。もちろん若い橙子のほうが負担は大きく、九石家のルールを破ってしまえば怒られた。それでも、橙子にとっては無視されるよりもずっとよかった。仮にも義理とはいえ、母親に自分の存在を認識してもらえるというだけで、嬉しかった。本当の母親の両目にこの身を映すことさえ、もう叶わないのだから。

 橙子は一生懸命によく尽くした。夫にも、義両親にも、子どもたちにも。一人前の人間として、認めてもらいたかったから。愛して欲しかったから。いつも彼らのことを第一に考え、彼らのためになることは何かを考えた。そしてそれがこの家のルールに外れていないかを、注意深く照らしあわせた。もし橙子が見逃してしまっても、椿がちゃんと見つけてくれる。そんな奇妙な安心感とも言える感情が橙子の中で漂っていた。

 「ただいまぁ」玄関で凜花の声がした。はっと窓の外を見やると、もう暗くなりかけている。煮込んでいる最中のハンバーグの鍋が、コンロの上でぐつぐつと音を立てていた。

 「いけない、どうしてこんなところに座っているのかしら」橙子は片付いた食卓を立ち、キッチンに戻る。

 「お腹すいた」凜花が鞄をどさりと置き、食卓に突っ伏した。東京の名門女子校の高校の制服が眩しい。頭と要領の良い凜花は、難なく私立の名門中学校受験を突破し、椿も橙子も近所で鼻高々だった。

 「もうできてるから。着替えておばあちゃんとお父さん呼んできて」

 橙子は凜花の背中にそう告げ、マカロニサラダと生春巻きを冷蔵庫から取り出した。

 「うまいなあ」孝太郎がハンバーグをワインで流し込みながら、キッチンでクラムチャウダーを器によそっている橙子に声を掛けてくれる。

 「わたしはもう歳だから、こういう脂っこいのはちょっと困るのよ」と椿が自分で白ご飯をよそいながら言った。

 「そうですね、気づかなくてごめんなさい。凜花が好きなもので」橙子は咄嗟に詫びた。

 「じゃああたし、おばあちゃんのハンバーグ半分食べていい?」女子校にいると食欲が増すの、と言って凜花は柔らかそうな二の腕をのぞかせて椿の皿に箸を伸ばしていた。

 「これはどちらかと言うとあっさりしてると思うんだけど」そう言ってクラムチャウダーを人数分置き、橙子は自分も席に着いた。

 「お母さん、子どもの手が離れて暇だって言っていたでしょう。おばあちゃんの分、違うメニュー作ったら。さばとか。あたし嫌いだけど」凜花が顔を明るくして言う。

 「そうね、それもいいアイディアかもしれない。そしたら凜花、太るかもしれないわよ」

 「うるさいなあ。大学入って彼氏でもできたら嫌でも痩せるんだから。ねえ、おばあちゃん」橙子と椿に挟まれる格好で座る凜花が椿の方へ顔を向けた。

 「魚は体にいいんだよ。凜花くらい若かったら、何を食べても活力になるからね。別のものを作るのは勝手だけれど、食費は増やしませんよ」最後の言葉は橙子に向けられたものだった。

 「じゃあ明日はお義母さんの好きなカレイの煮つけにしますね」

 「あたしもカレイは好き!」凜花はどんな会話にも必ず加わっているのに、食べるスペードは恐ろしく早かった。

 「凜花、よく噛んで食べなよ」目の前で食卓の一面を占領して新聞を読みながら食事をする孝太郎が、凜花をたしなめた。

 「食事の時間を節約できた者が受験を制す、って塾の先生が言ってたの。お父さんみたいに二時間もかけてだらだら食べるのもどうかと思うけど」凜花がむすっとして父親を冗談ぽく睨みつけた。

 「そういえば志望校はもう決めたの?」橙子はなるべくさらりと聞こえるように言った。普段、あまり子どもの進路に口出しはしないように気をつけていたが、気になるものは気になる。

 「うーん、まだ。成績を上げられるだけ上げてから決めるよ。まだ高二の秋だし、あと半年くらいはまだまだ変更きくからさ。とりあえず、理系かな。お兄ちゃんは文系行って、大学時代あんまり勉強してない感じだったから。ああいうのが、日本社会をだめにするんだよ」

 ごちそーさま、と言って凜花は食器をシンクに乱暴に置いて部屋に戻ってしまった。

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(B5-6)随分遠いところまできてしまった

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