(B5-6)随分遠いところまできてしまった【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 孝太郎が食事を終えるまで洗濯ものを畳んだり、テレビを見たりしながら待つのが日課だった。テレビというのはすごい、と橙子は思っていた。座って見ているだけで、実に多くの情報を見る者に与えてくれる。橙子は毎日のこの習慣のおかげで、世間の人よりも随分と物知りになったような気がしていた。とは言っても、橙子が家事をこなすあいだもテレビを見ている椿にはおそらくかなわない。椿も、橙子がこの家で生きていくうえで実に多くの情報を橙子に与えてくれた。椿がいなかったらどうなっていただろう、と思うと身震いがするほどだった。周人は無口だし、孝太郎は仕事で家にいないし、剛志は結婚して出て行ってしまったし、凜花はもう高校生だし。私はきっと、ひとりぼっちになってしまっていただろう。

 孝太郎が風呂に入るあいだに家族分の洗い物をしていると、凜花が台所に入ってきた。お風呂あがりで紅に染まった頬の上で、濡れた団子頭が色っぽい。

 「ねえ、お母さん」その時、娘は生まれてはじめてそんなふうに私を見た。

 「ん、なあに?」橙子は手元の皿から目を離さずに、愛しい娘の声に耳を傾けた。

 「前から言おうと思ってたんだけど」冷凍庫を開けてアイスクリームを物色しながら凜花は言った。
 「お母さん、専業主婦って楽しい?」

 「え?」橙子は凜花の声が水に紛れてしまうのを防ぐために、水の勢いを少し緩めた。いつだってこうして、子どもたちの声にはきちんと耳を傾けてきた。そのつもりだった。

 「毎日家族のためにご飯作ったり洗濯干したりさ、掃除したりおばあちゃんの用事聞いたり、お母さんってそういうのほとんど完璧にこなすじゃない」

 「それはありがとう」橙子は満足感に身を沈めた。

 「あたしが小学校の時も、友だちの分までお菓子作ってくれてたりしてさ。ちょっと恥ずかしい時もあったけど、おかげであたし、さみしい思いはしなかったの。サヤカちゃんに、凜花ちゃんのママはセンギョウシュフで暇だから家にいるのかって言われたのも、その時はよくわかんなかったし、今となってはサヤカちゃんのお母さんがお母さんを羨ましく思ってサヤカちゃんにそう言ったんだろうって思うし。ほら、サヤカちゃん覚えてる? 髪を両脇で二つにくくった、背の小さい子。あの子の家、お父さんとお母さんが駆け落ちしたかなんかで、結構お金に苦労していたらしいの。だからサヤカちゃんのママは毎日遅くまでハンバーガー屋さんで働いてたって。あんたさえいなければこんなに働かなくて済むのにって言われるんだって、サヤカちゃん言ってた。だから、サヤカちゃんのお母さんはうちのお母さんが、サヤカちゃんはあたしが羨ましかったんだろうね。あの頃は全然そういう細かい事情に気づかなくて、サヤカちゃんにお母さんを分けてあげている感じだった。お母さんほどずっと家にいる母親も、結構珍しかったんだよ。友だちを連れて来ても嫌な顔ひとつしなかったし、お菓子はおいしいし、あれ、あたし何が言いたかったんだっけ」

 「褒めてくれているように聞こえるけど? 私にもアイスちょうだい」橙子は洗い物を終えた手を拭いて、凜花を食卓に促した。

 「そう。いいお母さんだと思うの。子どものことも気にかけてくれるし、かと言ってうるさく口出ししてくるわけでもないし。高校の友だちの話聞いてたら、嫁姑問題で離婚したところもあるみたいだし、そういうのもうちはないし。あたしとしても、家事とかあんまりしなくていいからこうして受験勉強にも集中できるんだし、助かってる面もある。あたしと一緒にY大目指してるナツなんて、弟の面倒も見て家事もしてるんだって。時間が惜しいから、料理は冷凍で済ませてるって言ってた。そう思うと、あたし恵まれてるんだなあって」

 「お母さんにできることはそれくらいしかないもの。凜花にしか頑張れないことは、凜花が一生懸命努力しなくちゃいけないんだから。お母さんにできるのは、栄養のある料理を作ったり、勉強のできる環境を作ることだけ」橙子は娘への愛情が本人に伝わっていることがわかり、嬉しく思った。

 「じゃあさ」と予想に反して凜花がほんの少し苛立った様子で言った。

 「じゃあ、お母さんにしか頑張れないことって何なの? 料理? 洗濯? おばあちゃんの御用聞き? 何の疑問も持たずに、そんなふうに日々をやり過ごすこと?」凜花の言葉はひどく尖った針製の蓑のように自らを囲い、橙子を近づけまいとする。

 「お母さんさ、なんで自分は今の自分なんだろう、とか思うことないの? 日常の小さな選択、ここぞという時の大きな選択、そういうのを積み重ねて人生ってできるんだと思うよ。お母さんは何を選択してるの? 家族のために一生懸命かもしれないし、そこにさえ手を抜く人に比べれば自分は頑張っているって思えるんだろうけど、それってお母さんが自分の時間を全部かけてまでしなくちゃいけないことなの? そういう理由まで家族に求められたら、正直こっちは重いんだよ。凜花のために、凜花のために。それ、自分が今と別な選択肢に思いを巡らせることとか、別な生き方をしてみることに言い訳してるだけだよ。他人を使って。そんなの、全然ありがたくもなんともない。あたし、北海道の大学に行くから。医者になるの。お兄ちゃんもシンガポールの駐在、まだまだ終わらなさそうだし、そうなったらお母さんどうするの? あたしにかけていた思いをお父さんとおばあちゃんに分散させて、お母さんが生きる理由を二人に背負わせるの? おばあちゃんとの関係だって、あんなの奴隷みたいじゃない。自分の意見って、ないの?」

 凜花の手の中で棒のアイスクリームがどろどろに溶けていた。話に夢中になると食べることを忘れるところ、孝太郎くんにそっくりだわ、と思う。この子はいつからこんなに難しいことを言うようになったのかしら。私にはもうついていけない、と橙子はため息をついた。

 「凜花は若いからね。いろいろそういうの考える時だね。お母さんくらいになると、だんだん考え方も落ち着いてくるから。大人になるってことは、選択肢を捨てていくことなのよ」

 「あたしはそんな大人にはなりたくない」凜花の声はおさまらない。

 「そんなの、ぜんぜん選択なんてしてないじゃん。そうやってずっと言い訳してればいいじゃない。生きる理由の『誰か』がほんとうに一人もいなくなったときに後悔しないならね」

 この子はどうしてこんなにも一人になろうとするのだろう、と橙子は思った。人間は一人では生きていけないのに。誰かのために生きることほど素晴らしいことはないのに。

 橙子はぼんやりと台所の入り口にある仕掛け時計を眺めた。長針と短針がちょうど重なり合おうとしていた。指し示す先の数字は十三。随分遠いところまできてしまったな、と思う。十二を引き伸ばしただけの、十三。入り組んだ世界に絡め取られた私は、新しいところにはもう行き着けない。なにもかも、もう手遅れなのだろう。
 かちゃ。じじじ。ぽん。

 聞き慣れた『イッツ・ア・スモールワールド』が流れる。凜花はもう昔みたいにこの音に怯えたりしていなかった。橙子はどうにもやり切れなくなり、時計を外して十二のところまで乱暴に巻き戻した。再び同じ音が流れる。今度は最後に残る数字が十二。橙子は満足した。大丈夫、十三になればまたこうして戻せばいいんだもの。橙子のそんな様子を冷めた目で見つめる凜花の視線が痛かった。

 また次に気がついた時、橙子の座る椅子の下には大きな水たまりができていた。自分が自分でないような奇妙な夢を見たような気がするけれど、その内容は思い出せない。おかしな幻覚を見て外に飛び出したことまでは覚えている。濡れた体が、その現実を証明していた。体じゅうに濡れた服が吸い付くように重く張り付いている。水は人を軽くしたり、また重くしたりするのだ、と橙子は思った。人々が囁く愛の言葉のように。耳にかすかなメロディーが届く。仕掛け時計の『イッツ・ア・スモールワールド』が終わろうとしていた。最後の詰まったような間抜けな音が橙子を安心させた。長針と短針はちょうど十二のところで重なり合っていた。明日も仕事で早いんだからお風呂にはいらなくちゃ、と橙子はひどく冷静に思う。熱い湯に浸かりたかった。体が冷えているからいけないんだわ、と思った。熱い湯に浸かれば、何もかも解決するだろう。静かに、椿を起こさないように、熱い、からだが溶けてしまうような湯に身を沈めよう。

 できることならそのまま終わってしまえばいいのに。あらゆることがぜんぶ。

 凜花。

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(エピローグ)嬉しさに打ち震える黒い血液

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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