(エピローグ)嬉しさに打ち震える黒い血液【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

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【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 秋の始まりは、橙子にとっていつも特別だった。凜花がいなくなってから三年と八ヶ月が経過した。お盆休みが明けると、朝夕に心地よい風が吹きはじめるようになる。からだは秋の到来を真っ先に察知し、途端に昼の暑さへの適応力を失くしてしまう。昼間にはまだまだ夏の太陽が残り、じりじりと地球の表面を焼き続けているというのに。その表面に貼り付いている、あらゆる何もかもを。

 七月のそれとは違う蝉の鳴き声が、緑の少ない通りにも響いている。サラリーマンや経営者にとって、お盆休みの終わりは夏の終わりとほとんど同義だった。子どもたちは間延びした夏を謳歌し、働く女性のうちのいくらかはその割を食うことになる。橙子の会社でも、子どもの夏休み期間のために活動を控えているタレントやマネージャーもいた。誰かと関わりを持って生きていくというのはそういうことなのだ、と橙子は了承していた。何もかも自分の思い通りに時間を使うわけにはいかないし、それはそのような人材を抱える会社にも言えることだった。子どもを持つことがコンプレックスになるような本末転倒な働き方はさせてはいけない、と橙子は常に気を配っていた。けれど、そんな会社の対応はしばしば、室田のような「子どもを持つことができなかった」側の人間をひそかに傷つけることにもなった。あちらを立てればこちらが立たず。このような状況を、橙子は会社を立ち上げてから十五年の間にいやというほど経験していた。勧善懲悪の善悪の立場は、いとも簡単に入れ替わってしまった。ありがたいことに株式会社Oneselfでは、そういった微妙で難しい心の対応は松野と室田が受け持ってくれていた。正式に前の夫との離婚が成立してから、室田は前よりも橙子の会社を積極的に手伝ってくれるようになっていた。

 「十五年だよ。二十年は絶対いきたいよね」室田が橙子の事務所で作業をしながら、橙子にそう投げかけた。

 「いや、五十はいきたいですね。九月の創立記念日の晩も、空けといてくださいね」

 「あんたいくつまで生きる気なの? 一応空けてるけど、もう気を遣わなくていいのよ? お金も全部返してもらったし、こうしてしょっちゅう顔を合わせているわけだし」と室田は言った。室田には凜花ほどのひらめきや柔軟性はなかったが、事務処理はとても早く正確にこなした。これまで曖昧に処理してしまっていた会計上の手続きや、ばらばらに動きがちな社内の統制などもしっかり取ってくれ、橙子は社長をもう一人得た気分だった。それでいて彼女はでしゃばりすぎるところがなく、「船頭多くして……」とはならないのがさらにありがたかった。

 「気を遣っているわけじゃないんです。ただ私がしたいからそうしてるんです。だからよかったら」

 「そういうことならありがたく。橙子の料理美味しいし」そう言って、室田はにっこり微笑んだ。

 室田は橙子よりも二つ歳上なはずなのに、どこか少女性を失わずに大人になったようなところがあった。女性はいつ、少女から大人になるのだろう。幼い頃の橙子はそれを「初めて恋をしたとき」だと思っていたし、剛志を産む少し前は「子どもを産んで母親になったら」だと思っていた。そして子どもたちが二人とも成人して結婚した今、橙子は自分のことを胸を張って「大人だ」とは形容できない。けれど同時に、少女としての橙子はほとんど失われていた。結婚、子育て、起業。それらのライフイベントは、橙子の皮膚を何度も傷つけはしたが、そのたびに新しく固い皮膚を作り出した。

 その日の夕方、橙子は椿のいる施設に立ち寄った。二年ほど前から、椿のボケは急激に進行した。食事を何度も摂ったり、逆に全く食べなかったり、橙子を百合子と取り違えたり、夜中に勝手に外出して警察に保護されたことも一度や二度ではなかった。病院に連れて行くと「認知症」の診断名がついた。

 「認知症は、老化による単なる物忘れとは違うんです」とその若い医者は橙子の目の前にこぶしを二つ掲げながら言った。まだ彼のおばあさんが生きているくらいの年齢の医者は、橙子くらいの看護師に「先生」と呼ばれ、眠たげな目をしていた。机には大きなコンピュータと、彼の生まれたばかりの子どもの写真が小さなカレンダーの隣にはめこまれていた。この医者は幸福だろうか、と橙子は彼の話を聞きながら考えた。そして、きっとそうだわ、とすぐに思い直した。だって彼は、間違いなく成功者だもの。世の中には、幸福を確約された人が存在しなくてはならない。そうでなければ、この世界に何の救いもないじゃない。

 「昼食になにを食べたのかがわからなくなったり、以前会った人の顔や名前が思い出せないのは、単なる物忘れです。認知症になると、昼食を摂ったことそのものを忘れてしまったり、ついさっきまで人と会ってきたこと自体を忘れてしまったり、病院とは何をしてくれるところなのかがわからなくなったりしてしまうんです」

 日中は誰かがほとんどずっと見張っていなければならないし、夜は勝手に出て行ってしまわないように玄関に柵をするなどの措置を取らなければならない。そのうえ、介護者は患者に罵られることはあっても感謝されることはほとんどない、ともその医者は言った。そして、橙子には会社を犠牲にしてまで椿に尽くす義理はなかった。孝太郎はあと三年弱勤務が残っていたし、たとえ退職した後だとしても彼には母親の介護はできないだろうと橙子は確信していた。彼は確かに仕事はできたし、人望も篤い方だった。けれど母と姉にスポイルされた、いいところのお坊ちゃんであるには違いなかった。まだ母親の病気を認めようとしないし、性格まですっかり変わり、自分を認識しなくなった母親を前にしてどのように振る舞えばいいか、いつも戸惑っていた。

 椿を施設に入れることに決めたあと、橙子は週に二度そこを訪れていた。最近増えている「グループホーム」というタイプのその施設は、認知症患者たちが共同生活をしながらできることは自分で行うことで、症状の進行を少しでも遅らせたり、精神的に安定させたりする施設だった。自分ができないこと、分からないことがどんどん増えていく中で混乱状態にあり、しばしば暴れていた椿も、ここへ来て随分と落ち着きを取り戻した。

 「お義母さん、こんにちは」橙子はすっかり顔なじみになったホームのスタッフの人に会釈をし、ロビーで窓の外を眺めている椿に声を掛けた。

 「おはようさん。今日もええ天気どすなあ」椿は少女のような顔をし、おそらくは嫁入りに合わせて無理に矯正した京都の言葉がかなり戻っていた。

 「どなたさんですか? 朝ごはん、食べていかはる?」

 「あなたの息子の嫁です。お義母さん、今はもう夕方ですよ。もうすぐお夕食の時間です」橙子はいつものように、同じ会話を繰り返す。

 「そうですか。そら知りませんでしたわ」椿はすでに会話から興味をなくしてしまったかのように、ぼうっと外を見つめていた。

 椿の娘たち三人は、母親が施設に入ってからほとんど寄り付かなくなってしまった。

 「行ってもお母さん、あたしのことわからないじゃない。そんなの行く意味ないわ」と言っていたのは朱音だったか。そのくせ、正月が来るたびに今は孝太郎と橙子のふたりきりになってしまった九石家を訪れ、孝太郎と土地の分配の話を念押しして帰るのだった。頭ではなにもかもすっかりわかっていた。彼女たちがそういう人種だということも、これといった悪気はないのだということも、九石家の財産の話に橙子が口出しをすることなんてできないということも。それでも心が、体がそれを受け付けないことがたびたびあった。どうして自分はこれほどまでに抑圧されて、我慢して、それでもなお自分の意見をひと言だけ口にする権利も与えられないのだろう。

 百合子はどうして都合のいいときにだけ「実家への来客」として取り扱われることが許されたのだろう。

 朱音は椿のどこを見て、「橙子ちゃんはお母ちゃんが姑でやりやすいね。あたしはお義母さんの扱いが大変。上流階級のマナーは厳しいよ」などと吐いたのだろう。

 茉莉花はどうして、何のしがらみもなく家庭も持っていないのに、親の介護に見向きもしないのだろう。「そういうしがらみが嫌だから、独身なの。施設に入れるお金が無いなら送るけど」など、実の親に対して吐ける台詞なのだろうか。

 彼女たちはどうして、大した苦労もせずにぬくぬくと暮らして、罰のひとつも当たらないのだろう。そんなの不平等じゃないか。せめて彼女たちが一生かかっても、喉から手が出るほど欲しがっても手に入れられないようなものを手に入れておく必要があった。橙子はそういった感情をすべて仕事にぶつけていた。そこには何色にも染まらない黒色が腰を下ろしていた。橙子はできれば、仕事に私情は挟みたくないと考えていたが、事態がこうなってしまってはそれも難しいのだった。

 会社にとって大きな存在だった凜花の無期限の失踪。

 孝太郎との冷めた関係。

 義姉たちへの不満。

 そういうことをなるべく考えないようにすればするほど、期待しまいとすればするほど、汚れた思いはしっかりと橙子にこびりつき、染みこんでいった。まるで橙子の心と体にとってそれが不可欠なエサであるかのように。

 「お義母さん、京都のお話、聞かせてください」ここにいるあいだ、橙子はよく椿の少女時代の話を聞いた。その内容は認知症の患者とは思えないくらい驚くほどクリアで、筋が通っていた。椿の話を信じるなら、椿も相当な苦労人であったようだった。京都の名家に生まれた末っ子四女が、東京の自作農家に嫁ぐまでの過程には、時代の激動を反映した犠牲的精神が満ちていた。この人の仕打ちの裏にはきっと、橙子も同じような目に遭うべきだという思いがあったのだろう。けれど、実際のところそれは椿が体験したほどではなかった。そこには椿の優しさという情状酌量が含まれていた。

 「お義母さん」話の区切りを見て、橙子は再び椿の名を呼んだ。

 「娘さんたちには、そういう話したんですか」母親の苦労話を聞いていたなら、あの奔放で常識の欠けた娘たちが育つわけがないと思ったのだ。

 「娘たち? わたしには娘は一人しかいないよ。いま話しているじゃないか、あんたに」

 瞬間、橙子は勝ったと思った。おそらく橙子は、この瞬間のためにせっせと週に二度も椿のもとに通い、優しく声をかけ続けていたのだ。この人と血のつながった者が誰一人として顔を見せないこの豪華絢爛な介護施設で。椿に出来の良い嫁として認められ、椿の血縁の誰よりも自分は情に厚い血の通った人間なのだと証明し、三人の娘を見返してやるという橙子の願望が、今いっぺんに叶ったのだ。橙子は思わず泣き出していた。それは長年のしこりが溶け出したための涙ではなく、ずっと抱え続け、そしてこれからも共に生きていくことになるであろう真っ黒などろどろとした橙子の血液が嬉しさに打ち震えているのだった。そうでもないと、これまで四十年近くも頑張った自分が報われないじゃないか。

 「おやおや、この子は困った子だねえ」椿はそう言って、車いすに崩れかかっている橙子の頭をしわしわの手で撫ぜた。

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(エピローグ)一通の手紙と最高の復讐

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