(エピローグ)一通の手紙と最高の復讐【長編小説】『少女が大人になるその時』

少女が大人になるその時

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『少女が大人になるその時』概要・目次

 それからちょうど二週間後、橙子のもとに一冊の本が届いた。ぐしゃぐしゃになった茶封筒に、丁寧にテープで糊付けされているのが不釣り合いな包みだった。差出人の名前はなく、本は古本だった。題名は『Living Well is the Best Revenge 優雅な生活が最高の復讐である』。題名を見た瞬間、橙子はぎくりとした。まるで見えない誰かに自分の心のなかを覗かれているような心地になったのだ。その時の橙子は、もう「復讐」などということは考えていないつもりだった。けれど、椿にある意味で天罰が下ったのだとどこかで満足している自分がいることも知っていた。そして、例の三人に同様の天罰が下ればいい、とも。橙子が直接手を汚すことなく、彼らは罰せられるべきなのだという考えが、橙子の中から消えることはなかった。それはどんなに目を背けても、いつまでもいつまでも橙子の影としてまとわりついてきた。
「凜花は復讐の肩代わりを休憩したかったんです」町田の言葉は今や橙子の細胞ひとつひとつに刻み込まれている。

 橙子は一晩でその小さく短い本を読み終えてしまった。それは、ある画家とその妻のエピソードを綴ったノンフィクションだった。第一次世界大戦後に活躍した作家、画家をはじめとした著名な芸術家たちとの華やかな交友関係を持ち、関わった人ほとんど皆を魅了した夫婦の独特な暮らしぶりが描かれている。その夫婦は愛する三人の子どもたちのうち実に二人を幼い頃に病気で亡くし、さらに世界恐慌後に傾いた一族の経営危機への対応も迫られた。そんな中、画家はスペインのある諺を見つけてくる。それが「優雅な生活が最高の復讐である」だった。様々な事態に見舞われたあとも、夫婦はできる限り優雅な生活を心がけた。それは豪華で贅沢な生活というのとは似て非なるものであり、どちらかというと精神的心がけのようなものだったとも言えた。

 そして本はこのように締めくくられていた。

 “優雅な生活は、生活か仕事かのどちらかで失ったものへの十分な復讐にはならなかった。ジェラルドはかつて語ったことがある。絵を始めるまではぜんぜん幸せじゃなかった、絵をやめざるをえなくなってからは二度と幸せになれなかった、と。”

 この最後を読み終えた時、橙子はひどく混乱した。結局のところ幸せになれないのなら、私は、私たち人間はいったい何のために毎日せっせと生きているんだろう、と。そして同時に心から安堵した。どんなに気をつけて、心がけて暮らしていたとしても、結局のところ確実な幸せなんて保証されていないのだ。それならなにも、我慢したり耐え抜いたり、自分自身を小さく卑劣に規定する必要などないのだ。

 橙子はこの本(と諺)からもう一つの考えを得た。それは、「復讐してやろう」などと思わないように努力することではなく、「復讐しようなんて思わないようにしよう」と自分を抑えこむことをやめようということだった。自分は聖人君子ではなく、感情を持った人間なのだ。ひどく落ち込むこともあれば、ずるい考えに心が絡め取られることもある。嫉妬に燃えることもあれば、自分になんて価値が無いと卑下することも多かった。認められたいがゆえに、常に誰かに対して優越感を感じていたかった。そしてそんな自分をどうしても好きになれないでいた。そういうことを丸ごと全部、受け入れるようにしようと思った。曲がった感情を矯正しようとしたり、他で埋め合わせようとしたり、自分を好きになろうと努めるのをやめようと。自分を、まして他人をどうにかコントロールしようとすることをやめようと。きっと六十年かけて橙子の血肉となってしまっているその習慣は簡単にはなおらないだろう。けれど、もうそれらをどうにかしようとすること自体をやめてしまおうと決めた。一度そう決めてしまうと、橙子がほんとうにこだわるべきところはほんの少ししか残らなかった。意固地になってうず高く築き続けていた城壁は、周辺国との和解の可能性を全て摘んでしまっていたことに気がついた。本当はときたま門を開けて貿易ができたかもしれなかった。けれど過ぎてしまったことは仕方がない。橙子の城は、今からでも開門の用意があった。全てを守ろうとしなくなった途端に、守るべきものを守る力が与えられたような気がした。

 そうだ、私のやりたいことはシンプルだったのだ。一人でも多くの女性を幸せにすること。いつでも凜花が帰ってこられるように、彼女の居場所を作っておいてやること。それはいつも美しく、心地の良い場所である必要はない。そんな場所など、この地球上にはどこにも存在しないからだ。自分を責めたり、場所や環境をどうにか変えれば何もかもがすっかり解決するわけではないのだ。

 橙子はその決意がしぼんでしまわぬうちに、何かひとつ行動を起こそうと思った。最初に頭に浮かんだのは、孝太郎の表情のない顔だった。彼の考えや行動が橙子の心を冷却したのではなく、ある意味では橙子自身が孝太郎を受け入れることを恐れていたのだと気がついた。思えばもう数十年ものあいだ、橙子は孝太郎の口から直接「生きていくのに必要のない会話」を耳にしていなかった。いつもそれは子どもたちを通して橙子に伝えられた。孝太郎が話してくれなかったのではなく、橙子に聞く用意がなかったのだ。遅すぎるかもしれない、とはもう思わなかった。

 「ねえ、孝太郎くん」橙子は青春時代のあの頃に戻ったかのように、そっと恋人の名を口にした。

(おわり)

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。