【長編小説】『空色806』第4章(2)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

空色806

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 実を言うと、朔は迷っていた。自分は、これまで絵に描いたような「やればできる子」の人生を歩んできたのだと思う。それはできすぎたものではなく、けだるい退屈さを含みながらも十分に恵まれたものだった。幼い頃に、母子家庭で苦労も多かったろうに、母に愛情いっぱいに育ててもらった記憶がある。必死で受験戦争に勝ち抜いて、たくさんのことを経験し、大人への階段を登り続けてきた。就職活動にだって、悔いはない。社会人になってからも、これが人生というものなのだと自分自身に言い聞かせながら、どこか釈然としない毎日をそれでも懸命に明るく生きてきた。

 これからもそんなふうであったのだろうし、ドラマでも映画でもない自分の人生は、そのようになんでもない平凡な毎日に埋めつくされることが唯一の小さな幸せなことのように思えた。自分だけがこの世界で特別なのだと息を巻いていた幼い努力家は、大人にならなければならないのだ、と。

 それでも、唐突とも思えるタイミングでそれなりに意を決して会社を辞め、探し続けた人が目の前に現れた。ルカは、確かに朔のそのもやもやとした気持ちに符合し、答えを与えてくれるその人に思われた。到底信じられないような話ではあったが、それは少なくとも、いずれ枯れてしまうとも知らずに登り続ける「ジャックの豆の木」よりは少しだけ確かなものに思えた。所詮、わたしが現実だと思っているこの世界でさえ、おとぎ話の端っこかもしれないのだ。

 「わかった。わたしに答えをちょうだい」と、朔は手を差し出した。

 「では、よろしいのですね。しばらく帰って来られないかもしれません。我々の住む国トラリアは今、少々込み入った事態になっておりまして」

 「ここでこうしてくすぶっているよりはいいんじゃない? それに今わたし、時間だけはあるの」

 「こんな素敵な図書館でくすぶるのは、わたくしなら大歓迎ですが」

 「今はいいかもしれないけれど、その資産家の資金が尽きたら終わりよ。ここ、どう考えても資本主義の原理にかなってないもの。いずれテーマパーク化して入場料を取り始めるわよ。それとも、この国の資産家の資産はお昼寝してても減らない仕組みにでもなってる? あるいはそうかもしれないわね。それで、わたしは旅支度をしてきたほうがいいのかしら?」

 朔は、しばらく見られなくなるかもしれない母の顔を見ておいたほうがいいような気がした。

 「いいえ」ルカは少しだけ悲しそうに首を振った。まるで、遠い過去に大切な忘れ物でもしてきたみたいに。

 「そこでは、地上の物質はあまり意味を持ちません。そして、申し訳ありませんが、わたくしにはあなたの言う『答え』を差し上げることはできないのです。わたくしの役目は、あなたをトラリアへお連れすることと、その道案内をすること。とにかく、この話は後にしましょう。わたくしは間もなく消えます。あなたに会うまでに、予想外に時間を食ってしまいました。できればすぐにでも出発したい。この図書館の『生死』の部屋に、大きな髑髏(どくろ)を模した本棚があるのはご存じですか? その中に、コナ・ハンソンという人が書いた『不老不死は可能か?』という本があります。その本の表紙に描かれた鳥の右目を三秒間見つめた後、髑髏の本棚の左目にあたる穴を内側から見つめながら重力を感じてください。体が重くなったら、少しだけ飛び上がってください。そうすれば、全てうまく行きます」と言い残し、最後にニコリと笑ってルカは消えてしまった。

 朔は慌てて周りを見渡したが、運良く誰も見ていた人はいなかったようだった。図書館という場所は、そこに人がいようがいるまいが、みながそれぞれ自分の触れている本のページを捲ることに耽っているのがいい。誰もが自分だけの世界に没頭できる場所なのだ。ここでは、例えば本を探したり、足を組み替えたりというような現実的な行動はむしろ非日常に分類される。それは美術館で絵を鑑賞するような体験とも似ていたし、肉体的な働きが少ない分、より精神世界のみに集中できる図書館が特に好きだった。そもそも、朔には絵に関する知識が皆無に等しかった。

 朔は、すううっと深く息を吸い込んだ。図書館独特の少し古びた紙の匂い。それは、真新しい本のページをぺりぺりと捲っていく時に香る、あの新鮮な匂いとは違った安心感を与えてくれる。誰かが手に取り、目を通した文章を、今度は自分の両目が追っている。前にこの本を借りた人は、いったいこの本に何を感じたのだろう。どんな跡を残していったのだろう。図書館の本というのは、そういった意味で作者の想いだけではない、その本を借りて行ったたくさんの人の想いもまるごと抱えこんで、そこに並んでいるのだ。

 先ほどの鳥人間(のような生き物)の姿を思い浮かべてみる。冷静になってみると、ただ夢を見ていたようにも思えた。本を片手に、うつらうつらしていたのかもしれない。そう思いだすと、急にルカの輪郭がぼやけはじめた。そういえば、「生死」の部屋には入ったことがない。自分のいる「解なし」の部屋からは、北の方向に三部屋分、そして階段を二階分降りた地下一階に存在している。なんだってそんな不吉な部屋を、と訝りつつ、自分の中にある無意識の死への憧れみたいなものが、さっきの幻覚を見せたのかもしれない、と朔は身震いした。正直に言って、今の自分の精神状態にはあまり自信が持てなかった。

 ルカの言っていた手順を一つひとつ思い出してみる。あの儀式的な行動は何を意味するのだろう。鍵盤を左端から順に叩いていくみたいにきっかりその手順を辿ることで、自分のいるこの世界と、どこか得体のしれない異世界が繋がるトリガーになるというのだろうか。それにしても、あまりにお伽話がかっている。それに、本棚の中で陽気にジャンプしているところなどをもし誰かに見られたらと思うと、ぞっとしない。

 同時に、彼女は気付いていた。自分が恐れているのだと。ほとんど軽蔑し、諦め、それでもなんとか期待を押し殺し大人になろうとしたこの世界に別れを告げること。心を凪に保つ努力を続けていれば、それなりに愉快に過ぎ去っていくこの現実を飛び出し、好転するとも保証されぬ異世界に足を踏み入れることに。

 ここには少なくとも大地がある。わたしの右足は、周囲からの明るい期待と灰色の嫉妬という鉛に絡め取られ、もう一方の足は自分が誰にも関心を寄せてもらえる価値の無い、世界でただ独りきりの原子の集合体なのだという孤独感に引きずられている。それでもここには歩き続けるための大地が存在し、道の向こうには蜃気楼が見せるオアシスがある。右手には渇きを癒すコップ一杯の水を、左手には空腹を満たすパンとりんごを握りながら、わたしはこの大地を踏みしめ続けている。人間は他の動物と違い、肉体的な満足だけでは生きていけない。そこにオアシスがあるという希望が我々を愛撫し、生きる活力を与える。肉体と精神の結合が営む日々の中でいつか蜃気楼が晴れ、本物のオアシスが現れる可能性だってないわけではないのだ。

 これらは、朔が今読んでいる男の物語から引用したものだったが、朔は大いに共感していた。そして、例の異世界への誘いは、あるいは永遠に留まることのできるオアシスの発見であるかもしれなかったし、あるいは目の前で突然大地が分断され、朔をそのまま深い地底に閉じ込めるものかもしれなかった。

 未知という代物は、それだけで人を興奮させ、恐怖させる。

 朔はまだ、選べる位置にいた。これまでのように、先の見通せる確実さを優先させることもできる。先生に褒められたいがために手を挙げ、母に自慢に思ってもらいたいがために満点を取り、確実に合格しそうな試験を慎重に選び、就職活動に向けて団体活動を精力的にやる。いつでも「模範的な少女」であることが、自身の夢になりかわっていた。

 「目標達成力がある」と褒められた日には、「自分が少し努力すれば達成できそうな目標を立てるのが巧いのだ」と心のうちで返答した。ずるい自分が嫌いだったけれど、そうでもしないと自分の価値を確かめることができなかった。

 いや、もうすでに朔は会社を辞めてしまった。これまでの自分ならまずしそうもない選択をし、社会のレールから外れた。それは選択というよりも、もはや一者択一状態だった。不満があったわけではないが、不満がなければいいという毎日と、目標の設定位置を注意深く見定める毎日に、多少なりとも疲弊していた。

 すでにわたしは変化を求めてしまった、と朔は認めた。ルカの言っていたことを試してみるということに、強く惹かれ始めている自分を感じた。

 例えそれが何でもない夢だったとしても、試すだけならいいだろうと、朔は部屋を出て、北側の階段へ向かった。館内はやけに静かだった。高級なホテルのフロントに敷き詰められているような絨毯を足の裏に感じ、曇り一つないガラス張りの長い廊下を歩いた。それは、陽だまりの中で昼寝をしている猫の背中を歩いているような気分だった。ふわりとした絨毯は、朔の足音を消し、その存在までも消してしまうように思われた。

▼続きを読む▼
第4章(3)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

2 thoughts on “【長編小説】『空色806』第4章(2)「鳥の人の言うとおりに」(朔 二十七歳)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。