【長編小説】『空色806』第5章(1)「双子は引き裂かれなければならない」(王 四十二歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 その時、カードル王は調理係のヨーテに付き添われながらおろおろとしていた。

 その日の朝食は、ココの実入りのバゲットが三本、ハムエッグ、コハダイモのパンケーキが五枚、ヤギ乳ヨーグルトが二リットル、雲タラのムニエル、生のヘーゼルナッツがちょうど二十六粒しか食べられなかった。二十七粒目のナッツをナッツオープナーにセットした瞬間、気分が悪くなったのだ。

 近ごろ胃の調子が悪い。医者に診てもらわねばと思いながら、王は洗い物をするためにキッチンへ入った。調理係のヨーテ以外は、みな食事を終えている。この城では、使用人も王族も関係なくみなで食卓を囲み、仕事もみなで分担していた。

 「人が生きるということは、美しいことばかりではない。部屋も汚れるし、うんちもするし、ゴミも出る。そういうことから目を背けているのは、生きているとはいえない。冠を取れば、私もただのオジサンだ」

 カードル王は就任時、そのように演説し、城では仕事の合間にハウスワークをこなし、朝の散歩ではゴミを拾う。村の子どもの中には王を「お掃除おじさん」と呼ぶ者すらいる。少しあわてんぼうなところはあるが、禁欲的で優しい王として愛されていた。

 やはり、サンドラの言うようにしばらく野菜と果物のスムージーを朝食にしたほうがいいのかもしれない――洗い場につっかえはじめた腹を見ながら、余ったパンケーキをもう一枚口に入れる。そう、禁欲的な王。

 前の年から城で調理場を担当しているヨーテは、抜群に料理が上手い。からだ全体がぷっくりとふくよかで、つるりとした白い肌を持っていたために、宮廷では時折「たまごさん」と呼ばれていた。彼女の手料理の中でも王の一番の好物は、コハダイモのパンケーキだった。ほんのり甘くてホクホクとした食感が特徴のコハダイモをたっぷり練り込み、オーブンでじっくり分厚く焼き上げる。黄金色に輝くヤギ乳のバターと、夏にだけ採れるオレンジ色のクラウドベリーのジャムを乗せ、口いっぱいに頬張る。さくさくとした表面と、もっちりとした生地がたまらず、王はこの一年間ほとんど欠かさず朝食にこれを食べている。

 王妃のサンドラの陣痛が始まったのは、ちょうど洗い物が半分終わった頃だった。慌てて洗い物をほっぽり出し、みなでサンドラの部屋の前に集まった。

 妻は、長女のレベッカの時と同じように、今にも息絶えてしまいそうな悲鳴を上げていた。聞くところによると、それは鼻から西瓜が出るようだとか、骨が砕けるようだとか、火鉢を突っ込まれるようだとか、おぞましい表現がされる。男ならショック死してしまうほどの痛みに耐え、子を生む女性たちは本当に強い。いつの時代も、本当に強いのは女性なのだ。こんな時に自分にできることは、おろおろと部屋の前を二百回も往復することくらいである。

 「こんなことなら、洗い物をしている方がいくらか気が紛れるかもしれない」そう言って王は、キッチンへ踵を返しかけた。

 その時、「おぎゃあおぎゃあ」と元気な声が廊下中に響き渡った。

 へなへなと座り込んだ王に、ヨーテがおめでとうございます、おめでとうございます、と何度も王の背中をさすってくれた。

 「きいやぁぁ! あうううう!」

 しかし、妻の悲鳴は止まらなかった。レベッカの時とは違う、不吉な予感が王の胸によぎる。どうして妻はまだ苦しんでいるのだろう。考えてわかるようなものではなかった。王は咄嗟に、妻の部屋へ飛び込んだ。

 「おぎゃあおぎゃあ!」

 二人目の王女の誕生は、同時に三人目の王女の誕生をも意味していた。

 「おめでとうございます」と、部屋にいた女性の使用人たちが王に声を掛け、その向こうではサンドラが疲れた顔で微笑んでいた。

 王妃が元気な双子の女の子を出産したというニュースは、瞬く間に国中に広がった。その日から一ヶ月、城は開放され、村人たちが歌を歌い、コハダイモのパンケーキが十万枚も振る舞われた。

 それからの三年間は、念入りに磨かれたガラスケースに入れて、クリスマスに飾っておきたいくらい、美しく幸福な日々だった。先に生まれた子をスズ、後に生まれた子をホープと名付け、大切に育てた。三人の娘は、三人ともまるで性格は違っていたが、どの子も優しく、それでいて芯があり、周りの人々を幸福にさせる力を持っていた。

 それはまるで、城の三姉妹が国中の暗く哀しい部分を片っ端から一つひとつ全部アメ玉に変えて、みなに配っているような光景だった。寒い冬には暖かいオレンジ色のアメ玉を、暑い夏には涼し気な空色のアメ玉を、大切な人を失った哀しみに沈む人にはライトグリーンのアメ玉を、嫉妬に燃える人には爽やかなレモン色のアメ玉を。

 けれど、実際には哀しみも苦しみも確かに存在していた。人は死に、小さな嫉妬の種はそこら中に散らばり、自ら命を絶つ人も少なからずいた。誰かの幸せは誰かの不幸せであり、涙が流れない日などなかった。厳しい冬には誰もが憂鬱な気分になり、家に閉じこもる。画家を志した青年は、ある日自らの才能の限界を悟り、牛飼いになって藁をかき集めていた。自らの内なる炎をなだめすかすことに失敗した女は、八年連れ添った夫と幼い子どもを傷つけて家を飛び出し、最後に自分も傷つくことになった。

 それでいい、と王は考えていた。皮肉なことに、苦しみも哀しみも、嫉妬も諦めも、嬉しさも楽しさも、幸福も満足も、人の心は何かと比べないことには何も感じられない。負の感情の振れ幅が大きいほど、喜びを噛み締められる。本当に恐ろしいのは、苦しみを味わった時ではなく、苦しみを感じなくなった時だ。苦労せず満たされた人は、もう前に進めなくなる。その場に座り込んでしまう。人の気持ちに寄り添えなくなる。そうして、もう自分のことしか見えなくなるのだ。

 救いも、満足も、天から降ってはこない。苦しみの最中にあるからこそ、目の前の相手が差し伸べてくれた手をぎゅっと握り返すことができる。また、自分自身にしか救えない種類の苦しみというものもある。毎朝島をぐるりと歩いていると、いろいろなことが目に、耳に入ってきた。王として自分にできることは、できるだけ多くの国民たちに触れ、その感情や生き様に触れることなのだ、と彼は信じていた。我が国の民は、優しい。

 そうして、王は試されることになる。

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第5章(2)「双子は引き裂かれなければならない」(王 四十二歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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