【長編小説】『空色806』第6章(4)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 それからしばらくの間、王は朔にいくつか質問を投げかけた。君は地上から来たのか。地上とは、住み良いところだろうか。食べるものが十分にあり、母ひとり子ひとりの家庭にも思いやりが行き届く場所だろうか。

 母ひとり子ひとり、という言葉に朔はぎくりとした。王は朔の出生を知る由もないはずだ。そして同時に、空に浮かぶ島の王が、なぜそれほどまでに地上での暮らしを気にするのか、朔はルカに聞いた話から痛いほど承知していた。あるいは王は、地上での生活に憧れているのかもしれない。自らに課したこの国の王という役割から、自由になりたいのかもしれない。そう思い込まないことには、笑顔を作れそうもなかった。

 そして、王は昨日自分で焼いたというアプリコットのスコーンと、温かい紅茶のおかわりを勧めてくれた。王という仕事は、忙しい時にはほとんど寝る暇もないけれど、普段はわりに融通のきく仕事なのだ、と王は微笑む。彼と話していると、朔は不思議と落ち着いた気持ちになれた。自分に父親がいたら、こんな感じだったろうか。この人のような人物であってほしい、と願った。

 朔はふいに、自分なりの“人の上に立つ者の倫理”のようなものを確かめたい衝動に駆られた。

 「王様もきっと大変でしょうね。国民たちみんなの満足を最大にするために、長い目で見て統治していかなきゃいけない。目の前では不平等に見えていても、国の維持のためには耐え忍ぶしかないこともあるだろうし、今の満足を追い求めすぎていては先で子どもたちが苦労する。わたしの国の政治家のあり方を見ると、首をひねりたくなることがしばしばあります。もっと賢いやり方があるだろうと。国民のご機嫌を取るために、将来に借りを作りすぎているんじゃないかと。けれど、それは結局わたしがまだ二十代だからなんです。将来を生きていく身だから、そう感じるんです。人は自分が生身で生きている時代のことしか、実際には考えられない。だから、あらゆる立場の国民を、あらゆる考え方をする国民を何とかなだめすかして、国家という形を曲がりなりにも保っている機関には、多かれ少なかれ敬意を表するべきなんだと思います。あまり敵意を向け合っていても、事態はよくなりません」それは、自分自身が人々に、国に感じていた持論だった。

 「ごめんなさい。初対面なのに、話しすぎました」朔は冷静になって赤面した。

 「君は随分と達観しているように見える。辛いことを経験したことのある人物しか到達できないような。ひょっとして、それはその左手が関係しているのだろうか」王は意を決してという様子で、朔の左手を見て問うた。

 「いえ、関係ありません。これは生まれた時からわたしの体で、わたしの一部ですから」朔は、ほんの少し言葉をつまらせて、すぐに作り慣れた笑顔で答える。王に気づかれないくらいの短い間、左指の行き先を案じて。

 そもそも、左手に指が五本ついていなければいけないなどと、誰が決めたのだろう。この世界に存在する人間の大半が五本指なだけであり、どちらが正常とか異常とかいった区別は、あまりに一方的に過ぎる。確かにこの指のおかげで幾分不便な思いをしたことはあったが、そのどれもが左手に五本指が付いている人間たちが考案したシステムにおける不便さであった。

 両手でハンドルを握らねばロクに舵も取れない自転車や、無駄に二つも小さな取っ手の付いた鍋。十本の指がついた人間のために作られた文明は、時に朔を社会の「普通」から疎外した。それでも、一度コツのようなものを掴んでしまうと、あとはただほんの少し注意して生きていくだけでよかった。「気の毒な障害者」という目印は、使いようによっては便利なことさえあった。

 「悪かった。私は時に、踏み込み過ぎてしまうのだよ。許して欲しい」

 王はこちらが気の毒になるほど頭を深く下げ、すぐに真面目な顔をして朔との議論に戻る。

 「国を統べる者として、もちろん苦悩はたくさんある。しかし、それは私が王という立場であるからではなく、私が人間であるところに起因しているように思う。私は今、たまたまトラリアの王という立場をとってここに座っている。国民の幸福を願い、国の繁栄のために尽力し、ある時には厳しい対応を迫られることもある。けれど、同時に私はカードルであるのだ。家族を愛し、スコーンを焼き、せっかちで、食いしんぼうな一人の男なのだ。誰もがみな、一時的に現在の役割を果たしているに過ぎない。それは運命や必然ではなく、また偶然でもない。ただそうであるという以外にないのだ。もし私が突然、壺を焼くことに魅了されたなら、私は壺焼きになるためにできる限りのことをするだろう。王という立場を務められる人物を育て、もちろんその立場を求める者である必要があるわけだが、私は進んで海底に篭(こ)もるだろう。フラスコのことは、聞いているかな? そして、あるいは私は立派な壺焼きにはなれないかもしれない。ある種の芸術的才能を要する営みには、努力だけではどうにもならない部分が確かにある。しかし、大切なのは、私が王位を退き、壺焼きを本気で目指すために一度海底に篭ったという、その事実なのだ。それによって、私は本意ではない王位に甘んじながら、己が壺焼きで名を成したかもしれぬ幻想に逃げて生き続けることから解放されるのだ。それは痛みを伴うが、そうすることでしか自分自身に到達することはできない。究極的には、王であろうと壺焼きであろうと、牛飼いであろうと乞食であろうと、表立ってあらわれる形によらず、我々は我々以外の何者にもなれない」

 「わたしは、わたしが何者であるのかを見定められずにいます」

 朔は、王に答えを求めるような気持ちで、彼のコバルトグリーンをした目を見つめる。

 「地上からここに来た者は、ほとんどみんながそう言うよ。自分を見失った、自分を探すためにここに来た、と。けれど、きついことを言うようだが『自分』というものはその辺りに名札を付けて転がっているわけじゃない。あるいは、どこかの啓蒙書にそれらしく書かれているように、自分の心の中に一定の形をしてもともとあるものでもない。それは形を持ってすらいないのだ。自分そのものを探したり、その今は見えない『自分』が今の自分を救ってくれると信じているうちは、出口は見えない。君は聡明だ。近ごろほとんどボケ老人のようになってしまっているうちの教育係の代わりに、娘たちの相手をしてやって欲しい」

 朔が答えを探す間もなく、突然、王の机の上のタブレットから人が飛び出してきた。

 それは、正確には人ではなかった。いや、人であることには違いないのだが、生身の人ではなかった。そこには、先ほど厨房にいたスズとヨーテが、タブレットから少しだけ足を浮かせる格好で映しだされていた。

 「パパ、ご飯ですよ! サクも降りてきて」

 スズがあさっての方向を見ながら手を振っている。向こうには、こちらの様子が見えていないようだ。

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第6章(5)「暫定的役割としての王と小さな城」(王四十七歳 朔二十七歳)

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