【長編小説】『空色806』第7章(1)「生きた臓器としてのピアノ」(キベ七十四歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「思ったより遅かったな。城の食事は美味いだろう。ニーマが手伝う時はひどいものだが」

 直線ルートを早足で一時間歩いた後、キベの小屋の扉をノックした。彼は右目で朔を捉え、むき出しの左目の穴で朔をまるごと吸い込んでしまうかのように上から下まで点検した後、家の中に招き入れた。

 中にはルカもいた。彼は細長く真っ赤なマグカップを片手に、手に持った紙をじっと眺めていた。

 「迷いませんでしたか」彼は紙から顔を上げずに、朔にそう言った。

 「暗かったけれど、あまり分かれ道がなかったから。それに、方向感覚には自信があるの」

 それを言うなら、鳥であるルカはこの暗い中どうやってここまで辿り着いたのだろう。鳥は夜になると目が見えなくなると、どこかで聞いた覚えがある。

 「珈琲は?」とキベが例の薄いピンクのマグカップを持ち上げる。

 「やめておきます。夜に珈琲を飲むと、眠れなくなるから」

 「こいつはデカフェだ」黄色い歯を奥歯まで見せながらそう言うと、キベは並々と珈琲を注ぎ、メープルシロップをたっぷり入れて朔に差し出した。

 キベの部屋にあるメープルシロップの瓶の口は、もう何度も傾けられてこぼれ出たシロップが茶白く固まっていた。お情け程度にかぶせられた蓋を見ながら、日本の勤勉な企業なら、こんな失態を犯さない機能的な瓶を開発するだろう、とほんのり思う。酸化しないように、空気の入らない容器に入れられた醤油や、最後の一絞りまで無駄にすることのないよう設計された歯磨きペーストのチューブたちみたいに。消費者たちは、どこまでも甘やかされる。けれど、キベはシロップの蓋がきちんと閉まろうが閉まるまいが、瓶がべとべとになろうがそんなことは蚊ほども気にしていないのだった。

 「ありがとう」

 あたたかいマグカップを朔は素直に受け取り、席についた。今回は、前回ほど苦労することはなかったが、それでも椅子はいくぶん高すぎるように思えた。

 それにしても、この集まりはいったいぜんたい何を目的としているのだろう。城に仕える教育係の双子の弟、国の郵便事業と安全管理を統括する鳥人間、そしてまったく異なる世界から一時的にこの空島に腰を下ろしている自分。平凡な毎日を繰り返しているだけでは決して交じり合うことのない種類の陰謀的集会。しかし、そこには王に反旗を翻さんとするような不吉な印象は見受けられなかった。そもそも、人が集まる時にどのような種類の人が集まるかといった必然性は存在しないのかもしれない。

 「それは?」朔は隣に座ったルカに問うた。いや、朔のほうが、あとから彼の隣に腰掛けたのだ。ルカが見ていたのは、古い譜面のようなものだった。

 「この国を救う可能性を秘めている、ある歌です。今となっては歌うものもおりませんが」

 「歌は禁止されてるんじゃなかったの?」

 「そうだ。だからこうして、こそこそ練習をするはめになる」

 斜(はす)後ろから聞こえるキベの声に振り向くと、彼は小屋の奥から布のかかった大きな何かを引きずり出しているところだった。

 「具体的には、ほ、あんたにはピアノを練習してもらうことになる」

 手品師が胸から鳩を出す時のように、闘牛士が命綱である赤い布を引く時のように、それはばさりと音を立てて仰々しく捲くられた布の中から現れた。ピアノ、と確かに老人は言った。けれど、目の前にそびえ立つそれは、おおよそ朔の知るところである「ピアノ」という楽器には見えなかった。

 なるほど音を指定するための合図としての鍵盤らしきものはある。しかし鍵盤といっても、ピアノのように縦に白と黒の延べ棒が敷き詰められているわけではなく、パソコンのキーボードのようなキイが大小様々な形で並べられているのだった。そして、キイのひとつひとつから上空の一点に向かって弦が伸びている。キイを押すと、その弦が呼応して音を奏でるという仕組みのようだった。三角錐(さんかくすい)を思わせる数学的な美しさを備えた弦には、丁寧に磨き上げられたガラス製の覆いが被せてあった。それは、幼い頃に見た東氷(とうひょう)タワーを思い起こさせた。大柄のキベの隣にあっても違和感のないほど高く、形が似ているわけでもないのに、生きている何かの臓器のようにも見えた。

 「この国のあらゆる楽器は、城の隣にある倉庫の地下に例外なく隔離されている。このピアノを除いて」

 楽器職人であったキベは、この国から楽器が姿を消す際、当然の成り行きとして職を失った。王はその代わりに、良すぎるほどの条件の仕事を提案した。けれどキベはそれを頑として受け入れず、城の真反対にあるこの土地に篭ってしまったのだった。

 「本題です」

 ルカがカップを机に置くこつりという音が、やけに部屋に響いた。

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第8章(1)「事件は、何の前触れもなく起きる」(王 四十七歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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