【長編小説】『空色806』第11章(6)「おかえり」(王 四十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 時間がないの。

 スズが朔に耳打ちしてきたのは、その日の夕方、浴室でのことだった。スズが完全に目を覚ましたことを知ると、すぐさまキベがルカを通して連絡を寄越した。今日からまた練習を再開する。それだけだった。

 いったい何のためにピアノを練習するのか、スズが目を覚ますこととどんな関係があるのか、朔は未だにさっぱり分からないでいた。キベとルカは、あるいは五年前の出来事を再現しようとしているのかもしれない。けれど、朔は朔であってホープではない。仮に朔が、地上に降りたホープの大人になった姿だとして。生まれつきのこの左手はどう説明がつく? 存在するはずのない祖父は? そんなことはもうすでに、考え尽くしていた。納得のいかないことに流されることほど嫌いなことはなかったけれど、ここではそうするよりほかないのだった。いちいち全てを自分の常識にあてはめて納得しようとするたび、次々に新しい不可解な事実が巻き起こるのだ。

 時間がないの。

 今度もそうだ。目を覚ましたばかりのスズが、朔にまた「不可解」を投げかける。この異世界で、朔の心は休むことを許されない。地上でただいつもの日常を送っているかぎり、こんなにもたくさんの不可解は訪れなかった。疑問はいつも、自分の内側から絞り出さなければならないものだった。ある意味では、何の不可解も感じないままに過ごすことだってできていたのかもしれない。いや、それができなかったから、わたしはここにいるのだろう。この八歳の幼い少女は、何を知っていて、わたしに何を求めているのだろう。結局のところ、疑問はどこにいても、自分の内側から生まれるのだ、たぶん。

 こんや、しなくちゃいけない
 何を?
 じゅうじにスズのへやにきて
 どうしたの、スズ
 いいから、なにもきかないで、おねがい

 スズは姉に聞こえないように、白樺の木でできた湯船の中でそう言った。

 浴室は、その中の空気をまあるく包み込むような、つるりとした石の壁に囲まれていた。半透明の乳白色の壁に、朔はよく顔を写してじっとすることがあった。ここにいると、なぜだか安心した。愛されている、許されている。そんな気分になれた。

 お風呂は、いい。涙もお湯もぜんぶ溶けあって、どこかへ流れてしまうから。

 「ここにいると、お母様を思い出す」
 ずっと一番の空色に塗られたままの湯船に入ってくるなり、ぽつり、とレベッカの口からこぼれた言葉。それは、幸いスズには聞こえなかったようだった。

 十時なら、キベの家に行った後でも間に合うはず。

 そう判断した朔は、まだ明るい夜道を歩いた。久しぶりに、一人でお散歩してくるよ。城の入り口でばったりと出会ったソメイとヨシノに、反射的にそう告げた。二人はこくり、と頷いて城の中に入っていく。誰かと住むということは、ある程度自由が制限される。たとえ行動を制限されていなくとも、精神的に完全な自由ではいられない。その完全な自由というやつに耐えられないから、さみしさに押しつぶされそうになるから、人は誰かと住むのかもしれない。

 あの子たちはどこに行っていたのだろう。さっと朔の頭をかすめた疑問は、城の外に出た瞬間、陽の光に取って代わられる。
 深く吸い込む。これがトラリアの夏の匂い。お日さまと、オレンジ色のベリーと、背の高い木と、乾いた空気が混じる。ここの夏の夜は、とても奇妙な感じがする。暑いわけではないけれど、日本の夏の夜のようなの涼しさとはまた違う。明るくて、まだまだ今日は終わっていないのだよ、と大きな声で訴えてくる。興奮して、眠れない夜のような。

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第12章(1)「鳥カゴの中で罪を犯す」(キベ 七十四歳)

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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