【長編小説】『空色806』第13章(1)「とにかくひと揃いの右手と左手がある」(朔 二十七歳)

空色806

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【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 こつこつこつ。

 スズの部屋の扉を、静かに叩く。

 返事がない。もう眠ってしまったのだろうか。

 時刻は二十二時を二十分ほど回っていた。八歳の女の子が起きているには、少し遅すぎる時間だ。いや、この城の人たちは、ほとんどがこの時間には眠ってしまっている。朔はそうっと、音を立てないようにドアノブを回す。

 スズは、朔の予想に反して起きていた。少なくとも朔にはそのように見受けられた。彼女は大きなベッドに腰掛けて、目を閉じていた。スズが起きていると判断したのは、彼女の右手がせわしなく動いていたからだった。

 まるでピアノを弾くように。

 まるでピアノを弾くように。

 右手だけが。

 この動作の意味するところを、朔はこの時点で理解することができなかった。ただ、目の前のスズがとても心地よさそうに右手を太腿の上で躍らせる姿は、朔のみぞおちあたりに不思議なぬくもりを与えた。わたしの片割れ。

 来たよ、と発したつもりの声は、音にならなかった。そこで初めて、朔は自分が泣いていることに気がついた。このところ、わたしはよく泣くなあ。それでも涙は、枯れない。

 「おそかったじゃない」
 スズは目を開けて、こちらを見て微笑む。

 「ごめん、ずっと待っててくれたんだよね。ずっと、ひとりで。ごめんね」

 「いっしょにピアノをひかなくちゃならないの。そうしないと、ここはずっとゆめをみたままになってしまう」

 「どういうこと?」

 「いまいったことがぜんぶ。ことばにするとこわれてしまいそうなきがするし、たぶんうまくことばにできない」

 「わかった。そのためにわたしは、キベの部屋でピアノを練習していたの?」

 「それはまたべつのはなし。あしたになればわかる」
 スズはベッドから腰を上げ、朔のそばまで来る。

 「ついてきて」伸ばした両手で濡れた朔の頬を拭い、少女はドアの方へ足を運ぶ。

 二人は一階にある、例の空の倉庫の前に立っていた。今となっては、個人のプライベートな部屋を除いてこの部屋だけが唯一、城の中で朔のよく知らない部屋だった。

 「この部屋に何かあるの?」
 朔の問いかけに対して、スズは口の前に人差し指を立て、言葉を制した。

 それだけで充分だった。朔はもう、問いかけをしないことに決めた。

 がちゃり。静かな城の中で、その部屋に入るための音だけがやけに鮮明に響く。この音で誰かが起きてきやしないか、少しだけひやりとする。悪いことをしているわけではないのに、なぜかこのことは誰にも知られないほうがいいような気がした。わたしたち二人で全てを終えてしまわなくてはならない。

 その部屋は、いつものとおりがらんどうだった。かつて楽器倉庫として使われていた部屋は、楽器の禁止とともに中のものが全て隣の塔の地下に移されてから、すっかり空の部屋になった。朔はもちろん、スズでさえも、ここにかつて楽器があったことは知らなかった。

 スズは部屋に入ると、迷うことなく左奥の方へ向かっていく。部屋の中はひんやりと冷たく、そして薄暗く、それでもなんとか自分の足元くらいは見分けることができた。ぴとりぴとり。赤いレンガで作られた壁と同じ素材でできた床を歩いていると、冷たい温度がじかに足の裏に伝わる。今まで裸足で城の中を歩いていても、こんなに冷たく感じたことはなかった。四方八方が同じ色の部屋で、重力の感覚がおかしくなっていく。

 自分は今、下を歩いているのか、右を歩いているのか、上を歩いているのか。なにもわからない状態では、そんなことくらいしか考えることがなかった。そして、それすらもわからないのだ。わたしは今、何に対してなら「わたしはこれがわかる」と胸を張って言えるのだろう。

 部屋は見た目以上に大きかった。たっぷり一分以上歩き続けた後で――いつもキベの家に行くにはその百倍くらい歩いているのに、それは長く感じられた――ようやく部屋の左隅に辿り着いた。そんなに大きくも見えない部屋の中を端から端まで歩くのに一分もかかるというのは、やはりおかしな感覚だった。あるいはその一分は数値としては十秒でした、と言われるとやはり自信がない。

 その左隅には、くぼみがあった。それは正確には、壁をぽこりとえぐったという意味でのくぼみではなかった。まるでこの部屋はもともともう一回り大きくて、その部分だけを残して壁が全体的に内側に寄せられたのだ、とでも言うような存在感を放っていた。少なくともそのくぼみ(と、便宜上呼ぶことにする)は、後から付けられたものでも、あるいは設計時にそこだけが出っ張るように作られたものでもなさそうだった。文字通り、そこだけを残して壁が内側に寄ったのだ。

 いや、そんなことはどうでもいい瑣末なことだ。どうしてこんなことにこだわるのだろう? きっと、何もわからないからだ。何もわからないから、せめて自分がそこにいることを少しでも確かなものにするために、なんでもいいから考えてしまうのだろう。そう考えているのは朔か、スズか、それともわたし?

 くぼみは守られていた。赤と白がねじられたすすけた頼りない綱で、ささやかな警告を発して。その中には、おとぎ話のお決まりの文句みたいに木箱が一つあった。古びて部分的に黒ずんだ、湿っぽい木の箱。触れてしまうだけでぼろぼろと崩れてしまいそうな脆さ。そしてその箱は、重い鉄の蓋と鎖でぐるりとその身を締め付けられていた。箱を守る蓋と鎖。その重さに箱自身が耐えかねて壊れてしまいそうなアンバランスさは、より一層その箱を近寄りがたくさせていた。

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第13章(2)「とにかくひと揃いの右手と左手がある」(朔 二十七歳)

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
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