【長編小説】『空色806』最終章「四本目の世界へ」(朔 二十七歳)

空色806

▼概要・目次はこちらをご覧ください▼
【長編小説】『空色806』概要・目次(作:陽月深尋)

 「帰ります」
 次の日、朔は王の書斎を訪れてそう告げた。

 今週末、トラリアでは大きな音楽祭が行われることになっている。今朝早くから、国民の力持ちたちが倉庫に押し込められた楽器を村はずれにある音楽ホールに運び込んでいた。音楽ホールに入りきらない分は、国のあちこちに配置され、即席の演奏場が作られる予定だ。音楽ホールに来られない人たちも、みんながトラリアの音楽復活を祝えるように。王は五年前に職を失った楽器職人たちを呼べるだけ呼び寄せ、楽器の調整をさせたり、追加の楽器を作らせた。その中には、キベもちゃんと含まれていた。

 「まだ可能性を捨ててはいませんよ。私は危険分子です。いいのですか?」

 「いいのだ。また事件は起こるかもしれないし、そうではないかもしれない。けれど、そんなことを恐れるあまり、音楽そのものの持つ奇蹟の力を人々から奪うことは許されないのだ。やっと気づいたんだよ。それに、そんなことをしなくても人間という生き物は事件を起こす。なるようになるさ」

 「王様、なんだかいい意味でいい加減なお人になられましたね。郵便の時刻は守ってくださいよ。ただでさえ、鳥一族はフラスコの人たちへ音楽祭への招待状を届けるのにてんてこ舞いなんですから」

 あの後、王の元に謝罪に訪れたキベとルカは、王とこんな会話をやり取りした。

 「お姉ちゃん! スズの歌聞いてよ。スズのうた!」

 「あたしだって、今週披露することになってるんだから。リセに練習付き合ってもらいなさいよ」

 「かわいたトラリア〜〜はるはあめのきせつぅぅ〜〜」

 「あんた、歌下手になったんじゃない? いいよ、付き合ってあげよう。ね、夏はまだ終わってなかった。この夏いちばんの思い出できるよ」

 城の外から姉妹の声が聞こえる。本当ならわたしもそこにいたかもしれない。三姉妹だったかもしれない。いや、そんな「本当なら」はもともと存在しなかったのだろう。朔は心の中で独り言つ。

 「帰る? どこに帰るんだ。エネルギーポイントから君のもと来た場所へ戻る方法はまだ見つかっていないし、金色の樹から特別に逆行の皇鳥便を出したとしても、君のいたところではないはずなんだろう?」

 王は、音楽祭が行われようと行われまいと発生する、国という組織を維持するための公務に今日も追われていた。どんな組織であっても、その長というのは忙しい運命にあるらしい。

 「もと来た場所に、もうわたしの居場所はないと思います。わたしの母、祖父、友人。彼らはわたしのいない世界に、もう馴染んでいるはずです。わたしは一度、わたしの世界の成り立ちそのものを裏切ってここへ来てしまったから。だから、わたしはもう一度、新しい人間としてどこか全然知らないところで生きてみたいんです。あなたの奥様ともう一人の娘さんのように。それに、わたしが音楽祭にいたら、あなたは心のどこかで五年前の事件の再発を恐れるでしょう? 楽しんでください、音楽を。心から」

 「妻は……妻は、『さくら』という木が好きだった。地上に降りてその木に出会えたのかはわからないけれど、幼い娘に願いを込めてその名前で育てたのだろうか。さくら、さく、朔。やはり君は、ホープだったのか?」

 「どうなんでしょう。わかりません。この左指の説明もつかないし。それに、昔母が教えてくれたんです。わたしの朔という名前は、新月を意味するそうです。見えないけれど、そこに確かにあるもの。全ての始まりである新月。だからやっぱり、わたしは初めから千本朔だったんじゃないかなって。成長したあなたの娘ではなく、四本目のクリームの線の世界にいたのかなって」

 「四本目のクリーム?」

 「何でもありません」

 朔は王の書斎から見える空を眺めた。綺麗な青。空が近い。ルル、わたしが地上に降りても、うまくトラリアを隠しておいてね。そしたらわたしは、空を眺めるたびに、そこにこの素敵な島があるって思えるから。

 「ここは空が綺麗なんです。地上よりも」

 「そうか。海の青も悪くないぞ。地上に降りたら、潜ってみるといい」

 「はい、そうします」

 リセに伝えてください、部屋に入るって。
 そう言伝て、朔は書斎からそのまま地下まで降りていった。

 かちゃん。朔の大きな決意とは裏腹に、リセの部屋の扉は軽快に開く。

 「みんなにお別れを言わなくていいの?」
 「レベッカもスズも寂しがるよ、きっと」

 「ああ、あなたたち。いいの、ここは居心地がよすぎて、決めた時でないと決意が揺らいじゃいそうだから。ここはわたしの場所じゃない」

 部屋の中には、ソメイとヨシノがいた。

 「あの時スズとホープを入れ替えたの、あなたたちでしょう。どうりでルカが感知できなかったわけね。どうして話せないふりをしていたの?」

 「僕らには芸術家の血が流れているから。ほんとうに大切なことは、口に出すと色あせちゃうんだ。だから、それを見分けられるようになるまでは、むやみに口をきいちゃいけない。作家のパパの教えさ」ソメイが得意げに話す。

 「あたしたち、フラスコに行くことにしたの。あたしは占い師を目指す。ソメイは……まだ決めてないって」ヨシノが気の毒そうに隣にいる双子の兄を見やる。

 「余計なお世話さ。男ってやつは、ここで生きてんだ。何をするかじゃない、追い求めることが人生なんだ」ソメイは眉を少し吊り上げて、自分の左胸をがしっと掴みながら、言葉を返す。

 「地上にもたくさんの芸術家がいるよ。ほんものもにせものもいるけれど、本物はちゃんと人に届く。それが一人だったとしても、ちゃんと届くからね。あなたたちも負けないで」

 「楽しかったよ。結局サクとは全然話せなかったね」

 「気をつけて」

 ありがとう。その最後の言葉は、背後にいる二人に届いたろうか。いや、聞こえなくてもきっと届いたろう。レベッカにも、スズにも、みんなにも。ほんとうに大切なことだから。

 朔は、奇妙な引力を持つ、例の人間の顔のかたちをした本棚に足を踏み入れた。

[完]

The following two tabs change content below.
ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。