ひとまずこれまでの人生のまとめと、物書きになるまでの動機のようなものを書いています。
特に何の役にも立たない個人的な内容なので、ご興味のある方だけお読みいただければありがたいです。

幼少期から現在の経歴

古き良き時代の幼少期

1990年6月17日に自然分娩で生まれ、主に母乳育児ですくすく育ちすぎる。

おじいちゃん、おばあちゃんのいる大家族。
寝ながら食べるほどの食いしんぼう。親につけられたあだ名は「朝潮」(当時の横綱)。
負けず嫌いで頑固、何でも一番じゃないと気が済まない子だったそうです。
「すごい」と言われるのが好きで、そのための努力は惜しみませんでした。

アトピー性皮膚炎がひどく、常に包帯を巻いていました。これが原因でいじめられた思い出があります。
ただ主に食品添加物や農薬に反応するタイプだったので、母が「正直でいい体だね」と育ててくれたこともあり、特に劣等感も感じることなく、痒くて痛くて不便だなぁと思っていたくらい。
たまに食べるジャンクフードが好物でした。
まじで世の中なんでこんなに毒であふれているわけ?

小学生の頃から外ヅラだけいい八方美人になりました。夢は漫才師。

勉強にハマった中学、高校時代

小学生の頃に通い詰めた塾の反動で、勉強が大嫌いに。クラスの下から二番目をキープ。
馬鹿なことをして周囲を笑わせるのが生きがいでした。この時代のプリクラが流出したら、お嫁に行けない自信があります。

高校一年のとき「クラスで10番以内に入ったら嵐のファンクラブ入っていいよ」の母の言葉をきっかけに、勉強に目覚める。
やればやるほど成果がついてくる快感、正解のある安心感、そしてその先にある約束された未来(いい大学)。努力は必ず報われると信じていました。
この頃に漫才師の夢を諦めましたが、いじられキャラはおいしいポジションだったので、日々ネタを磨きながら受験勉強に励みました。

上がって落ちた大学時代

夢の大学生活。
自由、広い世界、素敵な先輩たち。
毎日バラ色でした。
特定のグループや部活には所属せず、自分の好きな時に好きなことをしていました。
この時わたしの頭にあったのは、「人よりもすごいことをしていなくちゃ」。
優越感=自己肯定感でした。何もない自分は嫌いでした。
長女だったこともあり、初めてできた「先輩」に甘えまくる日々でした。

3年の時に、スウェーデンへ留学。
華の留学生活が待っているかと思いきや、人生最大の壁にぶつかりました。

まず、食べ物が合わずお腹を下し続ける。アトピー再発。今でも肉は苦手です。
そして、ハイレベルな授業と、価値観の違い。
「頑張ること」が絶対的な価値だとされていたのは、日本だけでした。

できないことへの恐怖と、今まで信じてきたものが崩壊し、さらに体調も崩し、うつ状態に。
留学を楽しめていない自分が許せなくて、ほんとにきつかったです。

この時、英語を全く話せない妹が一ヶ月遊びに来てくれて、生涯の心の友になりました。妹だいすき。

母の会社を手伝う

帰国後、就活なるものに参加してみるも、市場全体への強烈な違和感と自信喪失の相乗効果でやる気がまったく出ず。
なんとか自己存在意義を見出したくて、母の経営する小さな会社を手伝い始めます。
卒業後も含めて約二年半、ここでいろいろ勉強させてもらいました。不安定なわたしにやることを与えてくれて、ありがたかったなと思います。

文章を書くことをライフワークにしたいと思ったのも、この頃です。
いい大学出ても、いい人生なんて待ってないじゃないか、うそつき。と、社会に対して思っていた気がします。

不純すぎる動機で公務員になる

自分にとって大切な読書、そして書くことを守るために、「平日は安定した大きな組織で働きたい」と思うようになります。ビジネスの「カネ第一主義」みたいなものにかなり疲れていたので、行政を選びました。
やる気満々&意気揚々と働き始めたのですが、ここでも「完璧主義」「優等生」という枠に縛られ、息がつまり、勝手に自分を追い込んで早くも6月にダウン。

生まれて初めて心療内科に行きました。
その時の配属先がとても良い人たちばかりで、一度は退職を決めたものの何とか戻してもらえました。
ただ、マイペースだったり、過度に集中したり、ひとつの刺激に対して多くの情報を受け取りすぎてしまう自分にとって、「決められた場所で決められた時に決められたことをする」というのが苦痛で仕方なかったです。
納得のいかないことをするのにも、いちいち疑問を持ちそうになる自分を必死でこらえました。

そして12月、二度目の休職。
この時に「3月でやめよう」と決めました。
初めて働く大きな組織がここでよかったなと思います。こぢんまりした部署でしたが、とにかく人がよかった。
年明けた頃くらいにはほぼ完全に打ち解けました。人との距離感が上手く測れないので、時間がかかるのです。
優秀で優しい上司にたくさんのことを教えてもらい、やめるにも関わらず大好きになってしまい、3月は何度泣いたかわかりません。

ニートになったのは必然的運命だったのか 2016年4月〜

25歳、ニート。
もう好きなことだけで生きよう、と実力も伴わないままぬるいことを考える。
明日のこともわからないけれど、とにかく今のハッピーを追求しました。
人間、過去とか未来とかあれこれ考えるから悩むんですね。

就職は一般論ではなかった 2017年8月〜

就職しました。
ニートブランクがあっても、就活しなくても、正社員で仕事というのはできました。

フレックスで一人作業が多いので、比較的自分のペースで仕事ができていました。
うつ状態を治してくれた場所で、医療関係の仕事をしています。

好きなことで生きる再挑戦 2020年1月〜

就職先での仕事を継続しつつ、フリーランスになりました。
仕事では、こちらのブログを運営しています。
シンバイオシス研究所

ボランティア活動で、こちらのサイトの制作・ライティングもしています。
みらいこども財団

生きがいと物書き

何のために生きるの?

これはずっと自分に問い続けている言葉です。
目標を失い、挫折を味わい、嫌われることを恐れ、生き続けることが苦痛で仕方なかった日々。
本当にどん底で、自分には何の価値もない、むしろ存在することで家族をはじめ社会のマイナスになるんじゃないかと思っていた頃がありました。
今すぐ死ななくちゃ、世界の迷惑になる。なのに、死ぬ勇気が出ない。
そんな臆病な自分に対して嫌悪感を拭えない日が続きました。

大切な誰かのために生きる

他人のために生きるというのは、一見高尚な生きがいに見えて、実は厄介なシロモノだと思っています。
「誰かのため」に必死で役に立とうともがき、上手くいかずに荒れ、迷惑をかけ、その埋め合わせをするために頑張っても全然うまくいかない。
その背景には「必要とされたい、愛されたい」という他人任せな生き方がありました。わたしは結局のところ、自覚のない自己中心的な生き方を誰かに押し付けていました。

自分のために生きる

けれど、自分の不平不満につながる一切のことをやめ、「これがしたい」と自分が思うことだけをするようにして、徐々に生き方が変わってきました。
言い訳が減り、人に優しくできるようになり、自分の人生に責任を持てるようになりました。
だって自分の好きなように生きているのですから、自分以外に不満をいう相手はいません。ぜんぶ自分に返ってくるだけです。

いったん死んだものとする

とはいえ、今まで苦労して手に入れてきたものに別れを告げ、何の社交辞令もなしに好きなことをするのには相当な覚悟と勇気がいります。
これには「死にたい」という強烈な気持ちが大きく貢献してくれました。
生きることやめる前に、やめられることはたくさんありました。
ブログ記事「いま死にたい人へ」もよかったらご覧ください

結局何のために生きるのか

今も何のために生きるべきか、わかっていません。
以前、大好きな作家の村上春樹さんが期間限定サイト「村上さんのところ」でこんなことをおっしゃっていました。

僕は基本的に、人生とはただの容れ物だと思っています。空っぽのかばんみたいなものです。そこに何を入れていくか(何を入れていかないか)はあくまで本人次第です。だから「容れ物とは何か?」みたいなことを考え込むよりは、「そこに何を入れるか?」ということを考えていった方がいいと思います

この方のこういう考え方、大好きです。この言葉にとても救われました。

言葉の力に誠実であるための物書きに

とはいっても、やはり「意味」がほしいのも事実です。これは長年で染み付いた考え方のクセみたいなものかもしれません。
なのでわたしは、物書きになることに決めました。
つらい時、勇気がほしい時、ちょっと立ち止まりたい時。
時に心をえぐり、時に憑き物が落ちるように、時に手のひらのぬくもりであたためるような。
いつだって、言葉に対して誠実でいることを心がけます。

2014.5.3 ちひろ(2020.4.17更新)