繊細さは、一周すると自由になる。『やわらかなレタス/江國香織』

江國香織という作家さんを、わたしは自分の中のどこに分類したらいいか、ずっとわからなかった。
そもそも、それぞれが突出した個性を持つ作家さんを、「分類」しようとしていたのがそもそも間違っていたのかもしれない。

よしもとばななを読んだ時に感じる、あの陽だまりのようなまっさらな感じ。
その感じと似た部分を持ちながらも、どこか決定的にちがう。

この人の本を、ブログに記録している限りでも三冊読んでいる。

『スイートリトルライズ/江國香織』
『神様のボート/江國香織』
『すいかの匂い/江國香織』

中でも、『神様のボート』に書いた、よしもとばななと江國香織の違いを表した表現は、手前味噌ながら気に入っている。

そして、初めて読んだ彼女のエッセイ。
小説には、書く人の一番深いところ、本人でも気づかないようなその人が出てくると思う。

けれど、エッセイは、その人自分のこと、または自分のまわりで起きることを、あくまで試みとしては客観的に描き出そうとする。
仕事として、「主人公」という、究極の主観的客体を描写する小説家にとって、自分のことを書くというのは、どんな心地がするものなのだろう?

自分のことを書いているのに、どこか他人ごとのような、少しくすぐったい気持ち?
だって、自分をありったけさらけだすなんて、それが世間に本として出てしまうなんて、なんだか恥ずかしい。
わたしなら、それさえも物語にしてしまいたいって思ってしまう気がして。

エッセイに出てくる「本人」としての江國香織は、とても繊細なひとだった。
こんなことを言うと失礼かもしれないけれど、不器用で、危なっかしくて、ひとりにできない。

自由奔放で、ガハハと笑っている人とは違う、けれどとても自由でマイペースな人。
彼女を見ていると、繊細さや敏感さは、一歩間違えれば精神的にも肉体的にも自分を危ないところに追いやってしまうかもしれないそれは、とことんまで突き抜けてしまうと「自由」になりうるのだと思った。

自分には確かに他の人とは少し違うところがあって、けれどどうしようもないのだもの。わたしってやつは、こういうふうにしかできないのだもの。そんな自由さ。

まわりに合わせなければいけない、という焦りも、まわりを拒絶してしまうような恐怖も感じられない。

そういう意味で彼女は強い。

繊細さと、自由と、強さ。

今までわたしの中で相反するところにいたそれぞれの要素が、こんなにも一人の人間の中にうまく溶け込めるのだと思うと、何だか嬉しくなった。

目玉焼きは、テフロン加工ではないフライパンで作った方が断然おいしい。それなのに私はテフロン加工で作ってしまう。(中略)くっつかない、という機能に一度慣れてしまうと、目玉焼きの目玉を壊すことが、ほとんど耐え難く感じられる。新種のフライパンに甘やかされて、私はすっかり怠惰になってしまった(でも甘やかされるのが嫌いな女の人なんているだろうか)。 P36

そう、いくら男の人みたいな女の人が増えても、こういう柔軟さや、スポイルされることの心地よさ、そしてそれが許されてしまう空気感は、女の人の持つ特徴のひとつと言ってしまえる気がする。

私たちはたくさん食べる恋人同士だったし、私にはそのことが誇らしかった。というのも、いまでは誰も信じてくれないが、私はその男の人に会うまで少食だったから。果物と野菜、それにお菓子はたくさんたべていたが、動物性のものは(バター以外)すこしで苦しくなるのだった。子供だったのだと思う。男の人によってひきおこされた自分の変化に、私は有頂天だった。 P43

こういう感覚に、すごく共感する。
主義云々ではなく、感覚的に野菜や果物、そしてなぜか不健康かもしれないお菓子をよく食べるという、一見矛盾しているようにも思える食の嗜好。
あと、肉や魚があまり好きでないと、外食が億劫になる。ひどく疲れてしまうのだ。肉は、過去のトラウマが原因だけれど。
チーズも牛乳も嫌いだけれど、ヨーグルトやカフェラテは好物というような、自分の中のおかしなルールみたいなものがある場合とか。
食べものに限らず、好き嫌いやこだわりのあまりない人にはわかってもらいにくい性質だったりする。
だから、なぜか自分がいつもと違うことを進んでできたような時には、やけに有頂天になったりもする。

マザーグースにこういう詩がある。
 ジャック・スプラットは脂身が嫌い
 彼のおくさんは赤身が嫌い
 二人で力を合わせたら
 ほらごろうじろ
 お皿はきれいになりました
はじめて読んだとき、何て便利な夫婦なんだろうと感心した。いつか、もし結婚するのなら、私の苦手なものをかわりにたべてくれる男の人だといいなあと思った。P92

上記のような理由で、わたしは好き嫌いが多い。
そして、妹もわたしほどではないけれど、好き嫌いをする。
そんな時、わたしたち姉妹はちょうどこの詩にある夫婦のような組み合わせになる。
妹の皿にある野菜や甘味たちはわたしの胃に収まり、肉や油っけのきついものは、妹が引き受ける。
最近はお互いが忙しく、二人揃って外食する機会はめったにないけれど、一緒に旅行する時なんかは、わたしたちの嗜好の圧倒的なまでな差は、奇妙な形でうまく折り合う。
「食の好みが同じ人と結婚するといい」とよく言うけれど、「食の好みが真反対の人と結婚するといい」という説にも、わたしはうんうんとうなずくことができる。

食べもののことを書いたエッセイは、いい。
食べたことのないものを、食べたような気持ちにさせてくれる。
どんな味がするのか、どんなにおいがするのか、自由に想像できる。
あるいは、食べないままで、むふふと想像しているだけで終わるのが、しあわせなのかもしれない。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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