写真の奥にある、失われた何か『使いみちのない風景/村上春樹』

「使いみちのない風景」
なんてすてきな響きなんだろう。って?
わたしもそう思う。

そこには、「風景は何かに使われなければいけないのか」「どんなふうに切り取れば、それは使いみちのある風景になるのだろう」などという議論が入り込む余地はない。
ただ、「使いみちのない風景」がそれとしてそこに転がっているというだけの話だ。

そして、それらの風景として認定(?)された風景のそばに、村上春樹の傍観的考察が添えられる。

彼はここで、「旅行」というものと「住み移り」というものの違いについて考察し、旅行というものの本質的な点について語っている。

「住み移り」と「旅行」とは基本的には、どれくらい長くそこに滞在するかによって区別されることになると思う。P24

それがどれほど感じの良い素敵な場所であれ、美しい風景であれ、所詮それを目の前にしている我々は旅行者であり、旅行者にとっていちばん重要なことは、通り過ぎていくという作業なのだ。
「移動するスピードに現実を追いつかせるな」、それが旅行者のモットーである。
でも住み移りの場合、我々を囲んでいるあらゆる風景は、我々の存在そのものにもっと直接的なコミットメントを持つようになる。 P36

現像されて戻ってきた写真を見て、僕らはこう思う、
「いや、ここには何かもっと別のものがあったはずなんだ。これだけじゃないんだ」
でも僕らがそのとき目にして、そのときに心をかきたてられたものは、もう戻ってはこない。
写真はそこにあったそのままのものを写し取っているはずなのに、そこからは何か大事なものが決定的に失われている。
でも、それもまた悪くはない。
僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから。P108

この文章は、「旅行」が誰かに代わりに行っておいてもらえるものではないことを痛烈に表わしている。
そしてわたしは、旅行で自分があまり写真を撮らない理由づけをもらった気がした。
面倒なことは面倒なのだが、それよりも「どうせ撮ってもうまく撮れないし、あまり見返すこともないから」と、目の前の異国、異文化の空気を体中に吸い込み、目に焼き付けることに集中する。
写真はスケッチ程度にとどめておけば良い。
誰がなんと言おうと、わたしはそういう価値観の人間である。
ただ、写真を撮ることは悪いことばかりではない。
後から写真を見返した時、そこに「決定的に失われているもの」を改めて自分で意識することができる。
そして、その見えないものこそが、自分が自分の足で旅行したからこそ得られた、特別な宝物なのだ。

なにはともあれ、この『使いみちのない風景』には、58点の素敵なカラー写真が載せられている。
どこが「使いみちのない」なのだろう。と首をひねりたくなるような。

あるいは、「使いみちのある」「ない」はどのようにして決定されるのだろう。
そこにある写真の数々を見て、そこに「写されたもの」そして「写されなかった、大事なもの」をあれこれ想像を巡らせて空想してみると、なんだか新しい、自分だけの旅が出来上がるような気分にさえなる。

写真って、わたしが思うよりも魅力的なのかもしれない。

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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