まあるい時間を過ごす『ランゲルハンス島の午後』村上春樹
エッセイ、というジャンルに魅力を感じます。
そこに確かにあったできごとなのだけれど、書き手の目を通し、脳を通し、文章にされることによってその光景やできごとはいかようにも見せる顔を変える。
そこには無限の視点があり、言葉の紡ぎ方がある。
村上春樹氏は、小説は言わずもがな、エッセイにおいても非常に斬新でみずみずしい視点を与えてくれる気がします。
それは、彼の小説の多くが「僕」という一人称で語られ、それがエッセイになるとより彼自身の視点や性格が色濃くなるがゆえの心地よさなのかもしれない。
以前読んだ本で、『夢で会いましょう (講談社文庫)』という本がありました。
これは、村上春樹氏と糸井重里氏が、ズラッと並んだカタカナ単語を前に、それにまつわる話やエッセイをリレーしていくという内容で、これもなかなか斬新で楽しかった経験があります。
この本は、そのカタカナの言葉を二人の頭のなかの辞書で引いてみるとこんな解説がでてきた、という印象に似ているかもしれない。
それと比べて、今回の本は、もっとなんてことのない日常の一部を切り取っている。
その切り取った日常を洗面所の鏡の隅に貼っておいたら、何日か後に髭剃りをしている時にたまたま目につき、その風景がよりくっきりとした輪郭を持ちはじめるといった具合だ。
彼の控えめで、それでいてどこまでもマイペースなところが好きだ。
ただ単に、好きなのだ。
このエッセイのどこにこういった観点を感じて〜云々〜 ここにはこんなことが暗喩されていて〜云々〜
なんてことは、正直言ってわからないし、興味が無い。
本って、楽しかったり、共感したり、救ってくれたり、安心させてくれたり、そういう経験をさせてくれるものであって、別に学術的観点からなんたらかんたらではない、と私は思うのです。
少なくとも、エッセイや小説にそんなものを、私は求めない。
だから、「好き」っていうそれだけでいいんじゃないかと。
「本、読まなくちゃな〜」なんて言っている人は、本を読むのがあまり向いていないか、それほど好きではないということなのだから、もうさっさともっと自分が好きなことをやればいいんじゃないかと。
本を読むっていうのは、最高の贅沢なんだから。
村上春樹のエッセイは、そういう「人生の休暇」みたいな贅沢なひと時を過ごさせてくれる本だと思います。
個人的には『遠い太鼓 (講談社文庫)』が大好きです。
話を戻しましょう。
今回紹介した『ランゲルハンス島の午後 (新潮文庫)』。
これには、安西水丸さんという、村上氏がふたことめにはとにかく褒める絵描きさんの挿絵があちらこちらにある。
決して写実的ではない。
かと言って、ピカソのような抽象画でもない。
「こんなの僕にも書ける!」という男の子もいるかもしれない。
しかし、安西さんの絵は、不思議なまでに私が勝手に想像していた村上春樹の世界にフィットする。
妙に現実感のない、それでいて派手なSF感もない、実に「しっくり」という言葉がしっくりくる絵なのだ。
安西さんの絵には角がない。
まあるいのだ。夢の中を描いたみたいな、そんな感じ。
その絵の隣に、村上春樹の文章が、なにを断言するでもなく座っている。
とても気持ちがよく、やわらかな時間を過ごさせてもらった。
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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