いまの人たちは、こんな旅できないんじゃないの?『雨天炎天/村上春樹』

(※本の引用を含みます)

今までの村上春樹の旅行記で、いちばん好きかもしれない。
『遠い太鼓』も相当によかったけれど、「自分ではぜったいにできない、とてつもない体験」で、なおかつ「自分の興味関心があるもの」への欲求を、こんなにもストレートに満たしてくれるエッセイは出会ったことがない。
『雨天炎天』は、巡った国ごとに2編に分かれている。
まずは。

【ギリシャ編】
アトス 神様のリアルワールド

本書は、ちょうど四半世紀前に刊行されている。
そのぶん、もちろん「海外旅行」というものは、今のそれとは大いに違っていた。

そしてその中でも、ギリシャのアトス半島という場所は、特に違っていた場所だった。
あらゆる意味において。
かなりざっくりと「アトス」というところを説明すると、
・ギリシャ正教の聖地
・女人禁制
・宿はなく、滞在者は修道院に宿泊する
・修道院に到着すると、ルクミ(ものすごく甘い)とコーヒー(ものすごく甘い)とウゾー(意外にもお酒)が提供される
・粗食なのに、修道僧は太った人が多い

といったところである。
こんな土地を、村上春樹はカメラマンと編集者と三人で徒歩で五日間くらい、とにかく歩き続ける。
険しい道を。
土砂降りの中。
粗末な食事をし、薄い毛布にくるまる。

いったいなにが愉しくて、こんな旅なんてしなくちゃいけないんだ?
わたしだったらそう思う。
けれど、村上春樹には彼なりの事情があるし、まあたしかに「アトス巡礼の旅」というのはなかなか響きが良い。
女人禁制だけれど。

【トルコ編】
チャイと兵隊と羊 21日間トルコ一周

こちらはうってかわって、トルコでの男二人ドライブ旅。
うってかわって、とは言ってもかなりハードでワイルドであることには変わりない。

トルコは、その面する地域によって全く異なる表情を見せるらしい。
華やかな賑わいを見せる、エーゲ海沿岸。
首都らしい騒々しさを兼ね備えた、イスタンブール。
一転、物静かで控えめな、黒海沿岸。(魚料理が豊富)
羊しか食べるもののない、ソ連との国境付近。(当時はまだソ連だった)
亡命を試みる者と、それを阻止しようとする兵隊たちで緊迫するイラン国境。
運転するのに神経をすり減らす、シリアから地中海にかけて伸びる国境24号線。

そして、カフェで飲むチャイ。

旅行というのは本質的には、空気を吸い込むことなんだと僕はそのとき思った。おそらく記憶は消えるだろう。絵はがきは色褪せるだろう。でも空気は残る。少なくとも、ある種の空気は残る。 P113

でもそれもどうしてもというほどのことでもない。できたら、ということである。僕の希望というのは昔からだいたいその程度のものである。 P142

もちろん、旅行はその人自身にしかその体験をさせてはくれない。
そして、四半世紀前に行われた彼の旅行は、どのような意味においても、今のわたしたちがなぞることのできるものでもない。

なんといっても、インターネットがなかったのだ。
ついこの間まで。
にも関わらず、今の時代のわたしたちは、いかに貧乏旅行のバックパッカーでも、Wi-Fiで容易く観光サイトや宿泊予約ができる。
日本に残した家族に連絡を取ることができる。

そして、インターネットがなければ、安心して旅行をすることすら難しい。
そもそも昔は、旅行は安全なんかではなかった。

そういう意味で、一昔前の旅行記を読むという体験は楽しいし、個人的に村上春樹の旅行者的目線にはとても好感が持てる。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
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