ずっと、◯◯ことを悲しみ続けて生きてきた気がする『死んでいない者』滝口悠生

芥川賞候補になっている時に、読んでみた作品。
実際は、文藝春秋で読んだ。

ちょうど読み終えた時、彼のこの作品が芥川賞に決まった日だった。

個人的に上田岳弘がいいな、と思っていたので、少し「えー」と思ったのが正直なところ。

でも、この作品もすてきでした。

家族。
核家族と言われて久しい時代に、それでもひいおじいちゃんの葬儀ともなると、それなりの数の親戚が集まる。

誰が誰の子で、目の前の人がいとこだかはとこだか、それともひとつ上の世代なのか、そんなことも曖昧なまま、それぞれの通夜は始まる。
親戚であっても、もちろん性格も顔も十人十色。

曽祖父との関係の濃い者、薄い者。
でもみんな親戚。

通夜は、宴会みたいで楽しいな、なんて子どもの頃には思っていたことを思い出す。

血のつながりは、やっぱり切っても切れないんだ、と思う。
どこでなにをしているかわからなくたって、たとえ馬が合わなくたって、どこかで否が応でも自分の中に入り込んでくる。

高性能ロボットでも、検索でも、人工知能でも、「血のつながり」を作り出すことはできない。
少なくとも今のところは。

お通夜は、亡くなった人がちゃんと「亡くなった」と実感するまでの猶予期間みたいなものだと思う。
けれど、忙しさに紛れて、宴会で故人の話をしたりして、やっぱりちゃんと実感みたいなものが周りに伝わっていくまでにはそれなりの時間がかかるんじゃないかとわたしは思う。

一緒に住んでいたおばあちゃんが死んだ時、とても奇妙な感じがした。
棺桶の中にいたのは、おばあちゃんじゃなかった。
だから、なんとなく、おばあちゃんの死をうまく実感できないままに、お通夜、葬式、四十九日が去っていった。

そして、日常の中からおばあちゃんがいなくなって、病院に行くこともなくなって、だんだんとそれに慣れていった。

死ぬことって、なんなんだろう。
誰かの心に生き続ける、なんて陳腐な言葉しか出てこないけれど、それでもそうじゃないのか。

これからの時代を生きていく人に、何らかの影響を残して死んでいく。
そうすることで、自分をこの世界に印して行くのかもしれない。
もしかしたら、だから人は子どもを産むのだろうか。

誰の心にも生きていない人は、もう死んでいるんだろうか。

人間は、必ず死ぬのんに、そしてそれをほとんど物心ついた時から知っているのに、
日々暮らしていく中ではぜんぜん意識することがない。

それがいいことなのか、悪いことなのか、わたしにはわからない。

最後の方の、この言葉がとても心に残っている。

「ずっと、ーーーーーーーーことを悲しみ続けて生きてきた気がする」

発売されたばかりだし、あまり書きません。
読んでみたい方は手にとってみてください。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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