この世界に生きる価値はあるのか?『異郷の友人』上田岳弘

※本記事は多少のネタバレを含みます。

上田岳弘。
『太陽・惑星』
『私の恋人』
に続く、三作目の単行本。

彼の本を読んでいると、その天才的な千里眼、人類を上から見下ろしているような書きっぷり、迷いのない分析に胸がすくような思いがする。
そして、こういう言い方はいささか傲慢に過ぎるとわかった上で、読みながら答え合わせをさせられているような気分にもなる。

ひとりひとりの生き方に「答え」はない。
これは、わたしが最近ようやく腹に落ちてきた事実である。

けれど人類、という大きな枠組みで見れば、答えは確かに存在し、個人はその宿命的な流れに抗うことはできないのではないか、そんな気持ちになる。

人生とは結局のところ、生きてから死ぬまでの余暇みたいなものに過ぎないのかもしれない。
そして、人類が絶えない程度に誰かが子孫を残す。
医療の発達やなんやかんやで致死率が下がった今の社会では、子孫を残すことにさほど躍起にならなくてもいいのではないか、と思う。

少子高齢化がやんや言われる今。
確かに何十年かはきつい時代が続くのだろう。

しかしそれも、人類という枠組み、あるいは宇宙という枠組みで見れば取るに足らないものであるだろうし、死ぬときは死ぬ、絶滅するときは絶滅するのだ。
「今」を生きる個人にとっては、その「今」に目を向けて生きざるを得ないだけで。

彼の作品は、そんなふうに長い目で人類史を眺めさせてくれる。

上田岳弘さんインタビュー
この記事でも著者自身が述べているように、純文学の持つ「一人称」という限界を越えることを目的としているらしい。

その結果、彼の作品は「超人的な想像力でもって人類の全てを知る者」であったり、「前世の記憶を持つ者」であったり、「他者の記憶を覗く者」が登場する。

三作品を読んで、ひょっとすると、彼は近い将来書くことをやめてしまうのではないか? と思ってしまった。
少なくとも今のスタイルでは。
「もう僕の書くべきことは、書き終えた」なんて言って。

それでも、彼の言葉は警鐘であると思う。
たとえ一個人がその流れを変えることは叶わないにしても、世界の流れに対する。

ああ、おもしろい。

以下、本文抜粋。

「生命とは、物質が罹患した病である」P26

俺がやるべきことなど、もうこの世にないのではないか? P30

「狂信的になってはいけません。実にその通りです。全てのものごとは程度問題なのです」 P51

怯えを待っていてはいけません。怯えるのは、本当に怖ろしいことが起きてからで間に合うのですから。怖ろしさにどうしても耐えられなくなれば、死んでしまえばいいのです。いいですか? 煎じ詰めましたら、最悪の場合でも死ぬだけ、なのですよ」 P78

私が見るところ、今日本において最もよく民族性が表れているのは「OWARAI」文化だ。 P88

人間に優劣はない。だから自分が存在する価値があるのかではなく、この世界に生きる価値はあるのか、というのが正しい問いだ。 P130

全ては偶然だ。死も生も、男も女も、どの国に生まれてくるのかも。人間が与えられたもので全力を尽くし、よりよく生きようとすること自体が、その偶然に服従するところから始まっている。つまるところ、人間は一人残らず奴隷だ。変えようのないフォーマットがあって、最大限頑張ってもそれをなぞることになるだけだと、明るい諦念で繋がれた奴隷なのだ。 P131

この最後のあたりは、カラマーゾフの兄弟(中)あたりの描写にやや似ている。
人間は、奴隷である。
我々には、「自由」は手に余る。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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