人生は無意味か?『あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?』土屋賢二
哲学、というとどうしても堅苦しいイメージがある。
著者である土屋賢二さんは、お茶の水女子大学の教授であり、本書はその初心者向け講義を収録したものだそうだ。
哲学には興味があったけれど、その敷居の高さからどうしても手が出せないでいた。
哲学のように問題を直截的に検討するよりは、小説などの物語を通して、メタファー的に感じていくほうが性に合っていたのだ。
そんな時に出会ったのがこの本だった。
大学生の初心者向け講義なら、まあわたしでもわかるだろうという安易な考えである。
「なぜ人間は八本足か」という突拍子もない問いかけに惹かれたのもある。
実際、この問いかけは「そもそも問題が間違っている」という分類分けをされることになる。つまり、人間は八本足ではないのだから、なぜ人間が八本足なのかという疑問はそもそも成立しないことになる。
これはわかりやすい例だけれど、哲学の問題にはしばしば同じような誤解が存在する、と土屋教授は言う。
そしてわたしがこの本を評価したいことのひとつが、この本がただの「取っ付きやすい」ものではないというところだ。
ちゃんと、哲学の本質とも言えるような(というのは誤解があるかもしれないので、しばしばこの世において本質的だとみなされる)問題が、論理的に収斂していく。
たとえば、「人間はすべて利己的である」と主張する人を挙げる。
この人の言い分は、他人のために尽くしている(マザー・テレサのような)人も、結局は自分の満足のためにやっているのだから、利己的なのだという。
これはわからないでもない。納得してしまうし、なんだか少し悲しい気持ちになるけれど、わからなくもない。
それに対して、土屋教授はこのように述べる。
「利己的だ」というのは、他人を犠牲にして自分の利益をはかるということです。
その場合の「利益」とは、お金とか、快適さとか、生存とか、快楽とか、名誉とか、いい評判とか、そういったものです。この中には満足感は含まれていません。
利己的であることの基準は、本人が満足するかどうかにあるのではない。
いささかこじつけのような気もしないではないが、彼はここで問題を「言葉の定義」の問題にしてしまった。
この先生がすごいのは、このように、人間がしばしば頭を抱えて答えのない闇をぐるぐる回ってしまう問題に対して、いとも簡単に、論理的哲学の問題として、さらりとかわしてしまうというところである。
考えてもしようがない問題を考えるなとは言わない。けれどそこに「言葉の上での誤解」があることを指摘することで、問題に違った見方を与える。
さらにはこういうものもある。
「楽しみなのに、楽しい思いをしない」
つまり、自分が好きでやっていることで誰にも強制されているわけではないのに、ずっと楽しいとは思えなくて、しばしば苦しみさえ感じてしまうということ。
わたしも小説を書く時にこのような気持ちに陥る時もあるし、それは大いにわたしを落ち込ませる。
けれど、土屋教授は自身のピアノの趣味を引き合いに出してこのように述べる。
ぼくの場合ははっきり言えるんですけど、実際に楽しいという感じをもつ瞬間はほとんどありません。
「楽しみでやっている」はずなのに、苦しむ一方なんです。楽しいという感じがまったくないのに、なぜか「楽しみでやっている」と言うんです。これって不思議ではありませんか?
わたしも彼とまったく同じように考えていた。
「好きでやっているのに、どうして嫌になってしまう時があるんだろう」
「本当は自分は、物を書くことなんて好きではないんじゃないだろうか」
「こんなふうに考えるなんて、なんて罰当たりなんだろう」
そんなふうに考えていた。
けれど彼はまたしてもこんなふうに言ってのける。
基準を考えてみてください。楽しみでやっていることの基準は何でしょうか?
ぼくの考えでは、「楽しみでやっている」というのは、生活のためにやっているのではなく、義務でやっているのでもなく、命令されてやっているのでもなく、お金のためにやっているのでもなく、家族のためにやっているのでもなく、習慣でやっているのでもなく、予防のためにしているのでもなく、それでもみずから進んでやっていることです。P149
つまり、「楽しみでやっている」ことの基準は、仕事や気味や生活などのためにやっていないことです。この場合も、「楽しいと感じる」ことは、この基準の中には入っていないんです。楽しい感じをもつかどうかは、楽しみかどうかということは関係ないんですね。P152
正直言って、この考え方には目からウロコだった。
「楽しみでやっている」というのは、当然ながら「好きでやっている」ということだし、それすなわち「それをしている間は幸せでいられる」ということだと思い込んでいたからだ。
このように、彼の語る哲学の中には
「基準」「前提」「定義」という問題が非常に多く登場する。
これは、問題を真っ向から議論しようと息巻いていた読者にすれば拍子抜けするかもしれない。
けれど、わたしたちが日々頭を悩ませ、それでも答えが出せなかったり、自らを責めたりしている場合において、このような根本的な「思い違い」のようなものが存在する場合は、我々が思う以上に多いのかもしれない。
同じように、「人生は無意味だ」という主張に対しても、彼は気持ちのいいくらいの回答をする。
「人生は無意味だ」論を展開する人にも、ちゃんとした理由がある。
例えば、「どんなものもやがて消滅する」という事実。
例えば、「人生は無意味な一日の繰り返し」という、意味のあるものなど結局のところなにもない、的な考え方。
正直なところ、わたし個人はこのような考え方をする人にわりに共感している。
結局、人生なんて何になるというのだ、と。
この論法に対しても、土屋教授は「確かに意味などないかもしれない」などという、フィクション的な譲歩は決してしない。
真っ向からぶつかるのでもなく、スイッチひとつで相手の足場を崩すように、鮮やかに論破してしまう。
こちらとしても後味の悪さはまったくなく、「参りました」と言ってしまうのだ。
すぐに読めてしまう軽い本なので、機会があれば読んでみてください。
なめてかかると、思いのほか大きな発見があります。
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