時代を超えて何度も繰り返し読まれる名作『クリスマス・キャロル』チャールズ・ディケンズ

※本記事は引用を含みます

1843年に出版された、英国のチャールズ・ディケンズの中編。
数えきれないほど何度も翻訳され、何度も映画化され、舞台化され、アニメ化もされている。

それほどまでに世界中の人に愛される作品なのだろう。

物語は、エベネーザ・スクルージという人物の描写から始まる。

いやはや、それにしてもスクルージは並外れた守銭奴で、人の心を石臼ですりつぶすような情け知らずだった。絞り取り、もぎ取り、つかみ取り、握りしめて、なお欲深い因業爺である。(中略)
行くところ、必ずその体温であたりを冷やすから、暑い夏の盛りにも事務所はうそ寒く、クリスマスを迎えていくらかなりと温もることもなかった。

ひどい言われようである。
そして、イブの夜に親切にも訪ねてきてくれた甥にも、クリスマスを祝うことに対して思いつく限りの悪態をつく。

「世の中には、幸せを感じること、喜びを与えられることがいくらでもありますよ。金儲けになるとは言いませんがね」甥は言い返した。 P17

彼は、クリスマスの募金に訪れ、路頭に迷う人々を救うことを説く男性にもこのような言葉を浴びせる。

「暮らしに困ってにっちもさっちもいかないなら、救貧院の厄介になればいい」
「救貧院で受け入れる数には限りがありますからね。いや、それ以上に多くの人が、そんなところへ行くくらいなら死んだほうがましだと思っているでしょう」
「だったらさっさと死ねばいい」スクルージは言い放った。「余分な人口が減って、世のためというもんだ」P23

誤解を恐れずに言えば、わたしはこのスクルージという人の意見に半ば賛成した。
彼の言うことはそれなりに筋が通っている。
貧しい人には、「救貧院」という手立てが用意されている。
それをつまらないプライドで受けたくないのなら、さっさと死ねばいい、と彼は言う。
だって、その他にいったいどうやって、関係のない人間が彼らのことを、彼らのプライドを傷つけないやり方で救えるというのだろう?
これは、現代日本の生活保護にも通じている気がする。

そんな彼のもとに、かつての共同経営者マーリーの亡霊が現れる。
超自然的なその体験に、さすがのスクルージも肝を潰した。
そして続く三日間、精霊たちが順繰りにスクルージのもとに現れると予言する。

精霊(その1)は過去を、精霊(その2)は現在を、精霊(その3)は未来を、スクルージに見せる。
スクルージ本人のこと、それを取り巻く人々の暮らしのこと、彼への評価のこと。

それはスクルージを混乱させ、改心させていった。
例えばこういう場面がある。

彼の会計助手の家で、ささやかなクリスマスが祝われている場面をスクルージが垣間見た時。
彼の家の子どもであり、病気持ちのタイニー・ティムが長生きするかどうかについて気を揉む。

それに対して、精霊の答えは冷たかった。

「未来の手でこの幻影が変えられない限り、子供は死ぬ」
(中略)
「それがどうした? 死ぬものなら、さっさと死ねばいい。余分な人口が減って、世のためというものだ」
 精霊から自分の吐いた言葉を投げ返されて、スクルージは悲痛にうなだれ、自責の念に苦しんだ。 P102

こういった具合に、スクルージは改心し、最後は……
というお話である。

単純と言えば単純だけれど、これほど純粋に美しい物語もないだろう。
だからこそ、百五十年以上の時を経てなお、この作品は読まれ続けているのだろう。


クリスマス・キャロル (光文社古典新訳文庫)

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