孤独はどこに行き着くのだろう『スプートニクの恋人』村上春樹

人は多かれ少なかれ、「寂しさ」や「孤独感」を抱えて生きている。
ひとりで生まれ、ひとりで死んでいく。
自分の心を本当の意味で理解してくれる人などおらず、愛とは相手を知ることではなく、知ろうとしてなお知らないでいることなのではないかとさえ思う。
そして静かな夜、わたしは大声で叫びたくなる。
なんの解決ももたらさない、非論理的な感情の爆発を起こす。
そして、人は群れていく。属していく。
「ひとりでは生きられない」、と自分の弱さをさらけ出すふりをして、そこに入れてもらおうとする。
安心しようとする。
そこで結局のところ発見するのは、「集団の中にいても、結局は個別の人間の集まりにしか過ぎない」ということ。
寂しさは癒やされず、集団に縛られることだけが唯一の気慰みになる。
人と会い、心を通い合わせることも、一時的な麻薬のように思えてくる。
それでは、人間は社会生活など送らず、はじめからひとりで生きていけばいいのではないか? と君は言う。
けれど、それは人間には耐えられない。
たとえそれが夢であっても、人は「ここに含まれている」という感覚なしには命を保つことさえできない。
『スプートニクの恋人』では、出口のない孤独、寂寥について多くが語られる。
※本記事では引用を含みます
消去法的に小学校の教師をしている「ぼく」、
「ぼく」の大学時代の友人であり、小説家を目指している「すみれ」、
そして「すみれ」がある結婚式で出会い、仕事を手伝うことになった「ミュウ」。
ぼくはすみれを愛し、すみれはミュウを愛し、そしてミュウはもう誰のことも愛することができない。
出口のない思いのサーキット。
それでも彼らは、足を止めることができない。
ただ、止めることができない。
寂しさは二乗にも三乗にも膨らみ、誰もが結局自分はひとりぼっちだということを発見する。
ぼくの思い。
すみれはぼくから離れて「さびしい」と言う。でも彼女のとなりにはミュウがいる。ぼくには誰もいない。ぼくには――ぼくしかいない。いつもと同じように。 P119
すみれの感じたこと。
わたしたちは素敵な旅の連れであったけれど、結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊に過ぎなかったんだって。遠くから見ると、それは流星のように美しく見える。でも実際のわたしたちは、ひとりずつそこに閉じこめられたまま、どこに行くこともできない囚人のようなものに過ぎない。 P179
そしてミュウの通り抜けてきたこと。
強くなることじたいは悪いことじゃないわね。もちろん。でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平をよく口にする人たちを、基本的には怠けものだと考えた。当時のわたしの人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。そしてそれについて注意してくれるような人は、まわりには一人もいなかった。 P241
ぼくは、ミュウに呼ばれて、すみれのためにギリシャまで行くことになる。
それが結局何になるのか、そんなことは問題ではなかった。
ぼくにできることは、それしかなかった。
でもそこでぼくが感じたのはたとえようもなく深い寂寥だった。気がつくといつの間にか、ぼくを取り囲んだ世界からいくつかの色が永遠に失われてしまっていた。そのがらんとした感情の廃墟の、うらぶれた山頂から、自分の人生をはるか先まで見渡すことができた。それは子供の頃に空想科学小説の挿絵で見た、無人の惑星の荒涼とした風景に似ていた。そこにはいかなる生命の気配もなかった。一日はおそろしく長く、大気の温度は暑すぎるか寒すぎるかどちらかだった。ぼくをそこまで運んできたはずの乗り物は、いつの間にか姿を消してしまっていた。もうほかのどこにも行けない。そこでなんとか、自分の力で生きのびていくしかないのだ。 P268
どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはいけないのだろう、ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために? この惑星は人々の寂寥を滋養として回転を続けているのか。 P272
わたしはこれを、タイで一人で過ごしている時に読んだ。
一緒に来た母親は三日で帰り、あとの二週間は、まるまるひとりの時間になった。
その気になれば、何日も誰とも言葉を交わさないことだってできる。
そしてふと、寂しくなる。
具体的な寂しさというよりも、やるせないような感覚になる。
そんなわたしに、この本は妙にフィットした。
どこまでも人の心の寂しさを描いた作品だけれど、同じような孤独を抱えた人の心を不思議に癒やす。
それは、明るさに任せた一時的荒療治なんかではない。
徹底的に孤独を見つめるからこそ、じんわりと生温かい液体が心を湿らせるのだ。
それは涙だろうか。それとも流された血なのだろうか。
書いた人
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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