記憶がもたらすのは幸せか、あるいは争いか。『忘れられた巨人』カズオ・イシグロ

忘れられた巨人

カズオ・イシグロ。
最初にその名前を聞いただけなら、誰もが彼を生粋の日本人であると思うだろう。

でも彼は、イギリス人。
両親とも日本人だが日本語はほとんど話せず、五歳の時からイギリスで育っているために、「もし偽名で作品を書いて、表紙に別人の写真を載せれば『日本の作家を思わせる』などという読者は誰もいないだろう」と述べているらしい。(Wikipediaより)

このご時世、そんな人は山ほどいるだろうに、自分がそんな境遇でないからすぐには思いを巡らせられない。

「私はこの他国、強い絆を感じていた非常に重要な他国の、強いイメージを頭の中に抱えながら育った。英国で私はいつも、この想像上の日本というものを頭の中で思い描いていた」とも述べている。(Wikipediaより)

そんなカズオ・イシグロ氏の最新作が、昨年翻訳で出版された。


※本記事には引用を含みます

これまでカズオ・イシグロ氏の本を読んだことはない。
リトアニアの友人は、「暗い感じがする」とあまり好ましくはない評価をしていた。

でも気になった。

時はアーサー王伝説のころから少し時代をあとにする。
場面はイギリス。
使う言葉も風習も違うブリトン人と、サクソン人が入り混じって生活している。
まるで人種が入り交じる現代のように。

「グローバル化」なんて、使い古された言葉なのかもしれない。
実際、交通手段や通信手段こそ原始的だったとはいえ、国を閉ざしていたのは日本くらいなものだったのだ。

そして物語は、老夫婦が遠くに住む息子のもとを訪ねる旅に出るところから始まる。

彼らには記憶がおぼろげにしかない。
それも、どこかに住む竜の息が国中の記憶を奪っているのだ。

それでも、記憶は断続的に感覚となって訪れる。
怒り
焦り
恐れ
そして愛

自分たちは、どうしていまこんなところでこんなことをしているのか。
それさえも霧が覆い隠してしまいそうになる。

夫婦は、近くの村を訪れ、山の上の修道院を訪れ、川を下り、何度も道を阻まれそうになる。

ほんのひと時だけ旅をともにする者たちに出会い、彼らを頼りに歩みをすすめる。

彼らは時に、記憶を取り戻すことを恐れる。

もしかしたら、自分は妻にひどいことをしていたのではないか。
記憶が戻ったら、夫は自分の元から去ってしまうのではないか。
その無理に止められた時計は、記憶と憎しみと争いの洪水となって、我々のもとへ降り注ぐのではないか。

そして彼らは進み続ける。

それが嬉しいものであれ、辛いものであれ、記憶はその持ち主のもとにあったほうがいいと信じながら。

主人公の男性が言った言葉が印象に残っている。

「霧にいろいろと奪われなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか」P410

本書は、「記憶」に紐づく人々の感情、その曖昧さ、闇の中にいるような不安、そして力強さ、恐ろしさを描きながら同時に、奪われることで、それを取り戻そうとすることではじめて輝くものの姿もありありと描いている。

加えて、極めてイギリス的要素も随所に散りばめられている。

妻のことをいちいち「お姫様」と呼んでいるのもその一例だ。
今回の訳では、必要以上に日本的に訳されていない。

おかげでイギリス文化に疎いわたしには理解しがたい部分もあるにはあったけれど、原文の雰囲気をそのまま味わえたという心地よさが勝った。

個人的には、最後の5%くらいを読み終えて、はじめて「ああ、読んでよかった」と思える本だった。

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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