生き直すきっかけ、そして生きる理由。『幻影の書』ポール・オースター

ポール・オースター

村上春樹氏の翻訳本を読んでいると、自然と柴田元幸氏のことに目が行く。
村上氏が翻訳をするうえで、柴田氏が非常に重要なアドバイザーとしてそこにいるからだ。

名翻訳者と評される柴田氏だけれど、村上春樹氏との共著での訳文は、あまり好きになれなかった。
その理由はたぶん、一癖も二癖もある原文に対する柴田氏の癖のなさ。

「柴田さんの翻訳はひと目で分かる」という人もいるけれど、わたしにはわからなかった。
ねっとりとした狂おしい世界が、彼のすっきりとした翻訳のなかでうまく結びつかなかったのだ。

[blogcard url=”http://kaedejune.net/reading/2147/”][/blogcard]

柴田元幸氏は数多くの本を翻訳しているけれど、中でもポール・オースターの翻訳は有名。
新しい著者の海外文学を探していたので、読んでみることにしました。


※本記事には引用を含みます。

ここに、とある絶望した男がいる。

仕事も手に付かない。
ろくに食べもせず、アルコールに浸されているか、ソファに寝そべってテレビを見るか、そうでなければ家の中をふらふらと歩いているだけ。

あとから思い返そうとしても、ほとんど記憶がない。
そんな彼の目に、映画の一場面が飛び込んでくる。

そんな日々に、ヘクター・マンがいきなり私の人生に入り込んできたのである。彼が何者かも全然知らなかったし、これまで彼の名を目にしたこともなかったが、冬がはじまる直前の、木々もすっかり落葉し今にも初雪が降ろうかというある夜、テレビで彼の映画の一場面を見たのだ。それを見て、私は笑った。どうでもいい話に聞こえるかもしれないが、私は六月以来一度も笑っていなかったのだ。予期しない痙攣が胸をのぼってきて、肺のなかでカタカタ鳴り出すと、自分がまだどん底まで堕ちていないことを私は悟った。私のなかのどこか一部分が、まだ生きたがっているのだ。 P11

ヘクター・マンは喜劇俳優ではあったが、当時の彼はさほど有名ではなかった。
これから名を上げようかというときに、ぱったりと姿を消してしまったのだ。

自分に生きる欲望が残っていることを発見させてくれた人物を、主人公は追うことにする。
ヘクター・マンの、意図的にあちらこちらにばらまかれたフルムを一つひとつ検証し、一冊の本を書き上げた。

それからある女が彼のもとを訪れ、彼はヘクター・マンの人生をより深く知っていくことになる。

主人公自身の暮らしがあり、彼女の口から語られるヘクター・マンの人生がある。
そして同時に、ヘクター・マンが撮りつづけていた映画の世界がある。

物語の中の、物語。さらにその中に、物語がある。

すべては紐付けられ、意味づけられる。
ヘクター・マンの通り抜けてきた人生と、それに引き寄せられるように起こったあらゆるできごと。
あるいは、彼の人生のほうが何かに引き寄せられてきたのか。

今度こそ絶対嘘だと思っても、調べてみるとやっぱり事実なのよ。だからこそこれはありえない物語なのよ、デイヴィット。何もかも真実だからこそ。 P223

主人公のデイヴィットにヘクター・マンの人生を伝える女は、彼の人生の物語をこのように形容する。

そして最後、何もかもが終わったように見えたときに、その女が自身にしたことを主人公は改めて思い知る。

何ヶ月か経って、翻訳を終えてヴァーモントを去ると、まさにこれがアルマのしてくれたことなのだと私は思い知った。 P323

この文章の前後がシビれます。

隠された真実と、目に見える「事実」らしい虚構。
それらが錯綜し、わたしたちは混乱する。

そんなとき、ヘクターの生き様はわたしたちに何が本当かを見分ける術を教えてくれる。

すべて本当であり、だがすべて虚偽でもある。センテンス一つひとつが嘘だが、言葉一つひとつが本心から書かれていた。 P179

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

新刊発売中!

できることなら、十四歳という年齢はすっとばしてしまえるのがいい。
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍のみ
販売価格:450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。