本当の話は本当に本当のことなのか『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン

本当の戦争の話をしよう

本当の戦争の話をしよう。

そう言われると、少し身構えてしまう。

今年二十六歳になったわたしは、当然のことながら戦争なんて知らない。
戦後のことだって、ぜんぜん知らない。

それでも戦争を風化させてはいけない、という人たちのおかげで、それなりに「知識」は持っている。

いつからいつまで戦争があったのか、誰が指揮を取っていたのか、そこにはどんな国際関係の決裂があったのか。
そんな「事実」は教科書から学んだ。

それに加えて、戦争映画や戦争漫画で、感じた。
戦争というものがいかに残酷で、つらいもので、グロテスクか。
人々からありとあらゆるものを奪っていくか。

それでも戦争はなくならず、「人工知能に戦争をさせれば血が流れない」などという人が出てくる。

それは、戦争を経験していないわたしたちが、本当の意味では戦争を知らないからではないだろうか。

もちろん、実際に経験しないことには、本当に戦争を知ることなどできない。

けれど、この本を通して、わたしたちはティム・オブライエンの感じた戦争を感じることができる。
彼の語る「事実よりも本当の真実」である物語は、わたしたちの目の前にえぐられた肉片を差し出し、強烈な便のにおいを突き出し、わたしたち自身の心臓に切り込んでくる。


※本記事は引用を含みます

ああ、と読む方は恐怖する。

戦争には、映画や漫画のように美しく哀しい「起承転結」などないのだ、と。
それは心もなくただ人が死ぬことなのだ。
それは戦争の話ですらないのだ、と。

本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向には導かないし、高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。『本当の戦争の話をしよう』P117

わたしたちは、それが戦争の話であれ犯罪の話であれ、なにか重大な社会問題の話であれ、そこから教訓を見つけようとする。
教訓のない歴史になど、何の意味がある?
過去に学べない人間に、どんな進歩がある?

けれど戦争には、一般化できる教訓などないのだと彼は言う。

本当の戦争の話の中にもし教訓があるとしても、それは布を織りあげている糸のようなものだ。それだけを一本抜き出すことはできない。より深い意味をほぐすことなくその意味だけを引き抜くことはできない。『本当の戦争の話をしよう』P129

戦争を一般法則化することは平和を一般法則化することと同じだ。ほとんど全部が真実である。そしてほとんど全部が真実じゃない。その根本の核心において戦争とはおそらく死の別名にすぎない。それにもかかわらず、兵士というものは、もし彼が真実を語るならば、死への近接は同時に生への近接をも意味していることを君に語ってくれるだろう。『本当の戦争の話をしよう』P134

戦争の話を誰かがする時、それが事実であれフィクションであれ、当然のごとく「伝えたいこと」がその根底にある。
その「伝えたいこと」のおかげで、話は真実味を失っていく。
事実を語っているのに、それは聞く方に伝わらないのだ。

この本の中で、ティム・オブライエンは自分自身のことを書いている。
時には危険だとさえされる自分語りを、いくつもの短編を通して行っている。

それは物語という形を取ることで、逆説的ではあるが、より正確に、より真実に近くなる。

でもいいですか、実はこの話だってやはり作りごとなのだ。
私は君に私の感じたことを感じてほしいのだ。私は君に知ってほしいのだ。お話(ストーリー)の真実性は実際に起こったことの真実性より、もっと真実である場合があるということを。『グッド・フォーム』P292

これが彼が小説を書く核心の部分であろう。
彼は「彼が見聞きしたこと」ではなく、「彼が感じたこと」を伝えようとしている。
そのためには、時には事実を語るだけでは不十分なのだ。

戦争、というある意味で特殊な事柄を語る時、そこに戦争的要素を盛り込んだ途端に話は本当ではなくなる、と彼はおそらく思っている。
戦争を生きた、そして戦争に死んだ人々は、「戦争」ではなく「人生」を生きたにすぎない。
そういうことだろうか。

訳者の村上春樹氏は、あとがきの中で作者の意図をこう解釈している。

本当の話は本当に本当のことなのか、それが作家ティム・オブライエンの提出する疑問である。そしてその作業は奇妙な虚実の迷路に作者を、また読者をひきずりこんでいく。しかしそれは決して、よくある小説作法的な仕掛けではない。それは知的なレトリック・ゲームからはほど遠い地点に置かれた切実な迷路である。オブライエンはそんな迷路の中でこう叫ぶ、「本当の戦争の話というのは、戦争についての話ではないのだ、絶対に」と。『訳者あとがき』P392

戦争を語らずして、本当の戦争を語る。
この一見して不可能にも思えるような、そんな超人技をティム・オブライエンはやってのける。

そこにはお涙ちょうだいの感動や、哀れみや同情、美しい兵士の物語はない。
糞まみれの野原、気が触れた女の子、遠くで聞こえる敵国の歌声。

これが戦争だ。

これが戦争なんだ。

みんな何をやっている?
戦争映画なんて作っている場合じゃない。
人が戦わなくていいような人工知能兵器なんて作っている場合じゃない。

戦争ってやつには、実体がない。
実体のないものと、これからのわたしたちは闘っていかなくてはならない。

でもその前に、本当の戦争の話、というのをまずは知らなくてはならないだろう。

そうでなくては、戦争とそれ以外の日常をうまく生きられなくなる。
死と隣り合わせの緊張感から解放された時、どうしていいかわからなくなる。
ノーマン・バウカーはそのようにして死んだ。

闘いの中で命を落としたのではなく、戦争に命をうばわれた。
記憶の渦を、うまく通り抜けられなかった。
ティム・オブライエンは、文章を書くことでその記憶と自分を分離したという。

私はものを書くことをセラピーであるとは思わなかったし、今でも思っていない。でもノーマン・バウカーの手紙を受け取ったとき、私はこう思った。俺は文章を書いていたからこそあの記憶の渦の中を無事に通り抜けてくることができたんだな、と。もし文章を書いていなかったなら、私だってどうしていいかわからなくなっていたかもしれない。あるいはもっとひどいことになっていたかもしれない。でも物語を語ることによって、君は自分の経験を客観化できるのだ。君はその記憶を自分自身から分離することができるのだ。君はある真実をきっちりと固定し、それ以外のものを創作する。君はある場合には実際に起こった物事から書き始める。『覚え書』P259

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