来る者は拒まず、去る者は追わず『風の歌を聴け』村上春樹

何もかもぜんぶリセットしてしまいたいとき
自分がいったいどこにいるかわからなくなったとき
結局どこに行きたいのか、どう生きたいのか見えなくなったとき
いつもこの原点に帰ってくる。
つまり村上春樹の『風の歌を聴け』。
※本記事は引用を含みます
そして思う。
ああ、何もかも過ぎ去っていくのだ、と。
どこにも行かずに、どこにも行けずに、それでもわたしたちは生きていくのだ、と。
今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養のささやかな試みにしか過ぎないからだ。
しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。P8
彼の文章は、何かを伝えてやろうという意気込みのようなものがない。
それにもかかわらず、読む者(少なくともわたし)の心には痛いくらい様々な感情が染み込んでくる。
孤独。やるせなさ。クール。優しさ。
短い物語だ。
友人と行きつけのバーでビールを飲み、介抱した女の子と付かず離れずの短い関係を持つ。
他人はあくまで他人であり、自分の孤独をいくらかでも癒やす存在ではない。
でもそれゆえに他人は優しく、愛おしい。
主人公の目線から見る「そこに生きる人」が現実感のないままに、ひどくリアルに描かれる。
僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。一ヶ月かけて一行も書けないこともあれば、三日三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。
それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。P12
物語の合間に、主人公、おそらく作者の独白のようなものが交じる。
文章を通して、彼は人生の困難さを別の視点で見ることができるのだ。
友人「鼠」とのやり取りも、話の魅力的な点である。
鼠は金持ちの家の人間だが、金持ちの家の人間であることを嫌っている。
彼は何も考えずに生きる人間を皮肉っている。
「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。
「そりゃそうさ。みんないつかは死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」
そのとおりだった。P18
考えることは疲れる。
特に、こんな正解のない世界では。
けれど、考えずに生きることは果たして生きるということなのだろうか。
鼠ははっきり言わずして、考えなしに進む世界を切り込んでいく。
そして、「僕」はどんどん過ぎ去っていく時間をとどめようとするわけでもなく、ただじっと見つめている。
死んだ人間について語ることはひどくむずかしいことだが、若くして死んだ女について語ることはもっとむずかしい。死んでしまったことによって、彼女たちは永遠に若いからだ。
それに反して生き残った僕たちは一年ごと、一月ごと、一日ごとに齢を取っていく。時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐しいことに、それは真実なのだ。P100
ブログ運営者
-
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
新しい書きもの
言葉の切れ端2021.03.06絶望的な話からはじめること[言葉の切れ端206]
言葉の切れ端2021.03.03抜かれたクッキーの味方をする仕事[言葉の切れ端205]
言葉の切れ端2021.02.28何もかもが変わってしまう[言葉の切れ端204]
言葉の切れ端2021.02.25有限な資源は無限に近づいている[言葉の切れ端203]
新刊発売中!
冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。
『レモンドロップの形をした長い前置き』
著者:田中千尋
販売形態:電子書籍、ペーパーバック(紙の書籍でお届け。POD=プリントオンデマンドを利用)
販売価格:電子書籍450円(※Kindle Unlimitedをご利用の方は無料で読めます)、ペーパーバック2,420円