心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある『1Q84』村上春樹

二月におおよそ七年ぶりの本格長編『騎士団長殺し』の発売が予定されている村上春樹氏。
彼の前の本格長編『1Q84』を読み返す。
この本は文庫になったタイミングで全部買って読んだのだけれど、それまでの村上氏の作品と比べて印象が薄かった。
たしかに非現実的な設定だし、ぶっとんでいるのだけれど、そこに「混乱を整理する力」のようなものがあるように思った。
とことん混乱しているわけではないのだ。
それは、村上氏が作家として熟してきたということなのかもしれない。
たしかに、このあたりから読者の村上小説に対する印象も変化しているように思える。
物語は、一組の男女の別々の生活の描写から始まる。
宗教を信仰する両親のもとで育ち、高級インストラクターとして働く女性「青豆」。
このネーミングセンスがいい。
彼女は、タフでかっこいい女性として描写されている。
それと同時に、ある一人の男性を思い続ける人間らしい面も併せ持っている。
清潔で健康な身体ひとつがあれば、それで不足はない。P73(BOOK1 後編)
「一人でもいいから、心から誰かを愛することができれば、人生には救いがある。たとえその人と一緒になることができなくても」P93(BOOK1 後編)
青豆はある日、「仕事」の途中で奇妙な世界に入り込む。彼女が仮に「1Q84年」と呼ぶ世界だ。
その前にタクシー運転手が象徴的なひとことを彼女にかけていたが、もちろんそんなことはあえて意識しない。
いつの間にか、抗いがたい事実として、彼女は「1Q84年」に絡めとられる。
「今ここで本当に何が起こっているかは、自分の目で見て、自分の頭で判断するしかありません」P19(BOOK1 前編)
その世界を、青豆はなんとか受け入れようとする。
自分のからだになじませようとする。
けれど同時に、そこから抜け出すためにあらゆる手を尽くす。
人が自由になるというのはいったいどういうことなのだろう、と彼女はよく自問した。たとえひとつの檻からうまく抜け出すことができたとしても、そこもまた別の、もっと大きな檻の中でしかないということなのだろうか? P75(BOOK1 後編)
青豆が「仕事」をし、彼女をかくまう女性がいて、その有能な秘書が青豆を護る。
青豆を追う組織がいる。
そして、スリリングな現実と、現実感を欠いた世界の狭間で、青豆はなにが「ほんとう」かを見極めようとしている。
それに考えてみれば結局のところ、我々の生きている世界そのものが巨大なモデルルームみたいなものではないのか。入ってきてそこに腰を下ろし、お茶を飲み、窓の外の風景を眺め、時間が来たら礼を言って出ていく。そこにあるすべての家具は間に合わせのフェイクに過ぎない。窓にかかった月だって紙で作られたはりぼてかもしれない。P93(BOOK2 後編)
そんな彼女を支える存在として、「天吾」がいる。
彼もまた、選択の余地なく大きな渦に巻き込まれていく。
NHKの集金人としての父を持ち、母のおぼろげな記憶を持ち、日々を暮らしている。
認知症のようになり、ほとんどなにもわからなくなった父に対して、天吾がぽつりぽつりと自分の心境を打ち明けていく。
「僕にとってもっと切実な問題は、これまで誰かを真剣に愛せなかったということだと思う。生まれてこの方、僕は無条件で人を好きになったことがないんだ。この相手になら自分を投げ出してもいいという気持ちになったことがない。ただの一度も」P288(BOOK2 後編)
天吾と青豆は、どちらも似たような境遇を抱えて育ち、今も「孤独」という点で共通しているように見える。
でも二人が決定的に違っているのは、「誰かを愛しているか否か」ということである。
いや、愛していることに気づいているか否か、ということ。
月が2つあり、「空気さなぎ」があり、リトル・ピープルがいる。
猫の町と、1Q84年。
特殊な性質を持った比喩の具現物たちが、物語を進めてくれる異色のラブストーリー。
書いた人
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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