目に見えてこない地震の影響『神の子どもたちはみな踊る』村上春樹

地震

自然災害というのは、とりわけそれが大きな被害をもたらしたものであれば、その話題に触れるのはひどく気を遣わなければならない。
どこまでが被災者なのか、当事者なのか。
みなが自分にできることを探したり、自粛したり、反対に明るく振る舞ったりする。

中でも地震は予測不可能である上に、多くの命をいとも簡単に奪う。

テレビや新聞では、倒壊した建物や割れた地面、避難所暮らしを余儀なくされた人の苦しみの声を取り上げる。

それらは「目に見える」、言い換えればわかりやすい被害である。
傍観者たちが、容易に感情移入しやすいマテリアルである。

けれど、実際の影響というのは、もう少し個人的で、見えにくいところにこそあるのではないか。

本書は阪神・淡路大震災について書かれている。わたしが四歳だったころだ。
あれから東日本大震災があり、中越地震があり、熊本地震があった。

物的支援の継続を目的とした活動が多い中、人の心はなかなか癒えない。
それは、「誰かに事情を話して、助けてもらう」といった状況とは離れた位置にあるものごとである。

過去に捨てた家族を思い、遠い土地で人知れず償いを続ける男。
震源地近くにいた、別れた夫の安否を異国で知らされる女。
東京で起こりかけている地震を防ぐために奮闘する「かえるくん」。

だれも、地震でこんな被害を受けただとか、これからどうしていこうだとかいう話ではない。
むしろ、話は地震とまったく関係ないことろで静かに起こり、静かに終わっていくように見える。

けれど、すべては地震によって少なからぬ、超人為的な影響を受けている。

何が何を象徴しているだとか、そんな小難しいことはわたしにはわからない。

たとえば、本書に収録されている「アイロンのある風景」。
茨城県に住む三宅さんは、海岸で火をおこし続ける。

そこに男女が混じっていく。
三宅さんと火を囲むうちに、彼らの心のうちが少しずつ照らし出される。

静かな田舎の海岸には、くっきりと神戸の震災の影が落ちている。

自然というのは、そういうものなのだろう。

発生を防ぐことはもちろん、理解したり分析したりすることもまた、人間のおごりなのだろうか。

被災した人々、あるいは日本という国が負った傷はどこに行くのだろう。だれが癒やすのだろう。

決して答えのない問いではあるけれど、あえてそこに答えを見つけようとするのであれば、
「人間の努力」と「時間」ということになるだろうか。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
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