これはぜんぜん青春小説なんかじゃない『ホテル・ニューハンプシャー』ジョン・アーヴィング

レモンライムを絞ってソーダ水で割り、シロップを入れた飲み物的な青春小説をお望みなら、この本はあまりおすすめできない。
あるいは、屋根裏でろうそくを灯し、クリスマスまで指折り数えるような澄んだ少年の心をお望みなら。
ジョン・アーヴィングといえば、言わずと知れた現代アメリカ文学の巨匠。
少し無骨な書き方をするような印象があり、『熊を放つ』と同様、物語の世界に入り込むまでに少し時間がかかる。
実際、最初の50ページを読み切るまでに三ヶ月はかかったと思う。
その間、いわゆる「読みやすい」「読み慣れた」小説に浮気をし続けていた。
そう、わたしにとってジョン・アーヴィングはお世辞にも「読みやすい作家」だとは言えない。
でもなぜか手に取ってしまう。
たぶんここには、わたしの「自由意志」みたいなものはないんだろう。
あらすじ。
父と母は、昔ホテルのアルバイトで出会い、父は熊を買った。
一家は父と母、祖父、そして五人の子どもたち。
彼らはひょんなことから、ホテルを経営することになる。
それは父の夢だったのだ。
時代とともに、ホテルも場所を変え、そこにかかわる人たちも変わる。
語り手は三番目の子どもである、次男。
どうだろう。
このあらすじからは、『ホテル・ニューハンプシャー』の魅力は蚊ほども伝わらない。
つまり、あくまでわたしの個人的な意見だけれど、ジョン・アーヴィングの小説はその物語の筋に特異性があるわけではなさそうなのだ。
でも読んだ人ならわかる。
この物語は、彼の口から語られることによってしか、物語に成りえない。
強烈な登場人物たち、
巻き起こる出来事とそのタイミング、
振り返り。
たぶん、彼らは「悲運に見舞われた一家」ということになるのかもしれない。
でもそれは同時に、被消費的な面のある「ありふれた」悲劇としてしか言葉にされない。
悲運についていかに述べるべきか、
とりわけわれわれの悲運について。
まったくありふれたもの、
という以外に方法はあるだろうか。
(下)P323
それでも時は過ぎる。
残酷に。
同時に優しく。
あっと気づく間もなく、人生は終わる。
人生が終わるなど、十五歳の我々は意識したことがあるだろうか。
「一生の半分はずっと十五歳さ。そしてある日二十代が始まったと思うと、次の日にはもう終ってる。そして三十代は、楽しい仲間とすごす週末みたいに、あっというまに吹き抜ける。そしていつのまにか、また十五歳になることを考えてる」(下)P69
人生は過酷である。
人として生きるということは、過去と未来を見せられながら、今この地点以外の不確かなカードを持ち続けることに他ならない。
それでも人は計画し、目指し、愛し、変更を受け容れていく。
いつなんどき吹き流されてしまう危険があるにもかかわらず、あるいはおそらく、その危険があるからこそ、ぼくたちは落ち込んだり、悲しんだりしてはいられないのだ。この世の仕組みがどうであろうと、何でもかんでも皮肉な冷笑的な態度で眺める理由にはならないのだ。(上)P309
生きるということのほんとうのことを、現実よりも雄弁に語ってくれる。
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