人生が私のそばを過ぎ去っていったみたいな気がする『卵を産めない郭公』ジョン・ニコルズ

郭公

もしあなたが、「人生のうちで一回はしっかりと狂っておきたい」と願うのであれば、その時期を十八歳くらいに合わせることをおすすめする。

というのも、その頃に狂ったものごとというのは、あとになって(つまりくだらない大人になったあとで)も取り返しのつく場合が多いし、それでいてしっかり「1回」の狂ったカウントに含めることができる年齢だからだ。

ただし、それはあくまでも自分の性質や行為を「狂い」と認識している場合に限るし、本当に狂っている人というのは好むと好まざるにかかわらず、ずっと狂っているのかもしれない。

主人公の暫時的恋人であったプーキー・アダムズは、至極まっとうな狂い方をしていた普通の女の子だった。

たとえば、こんな台詞がある。

「男の子がいつも勘定を持つっていうのは馬鹿げている」と彼女は言った。「それは彼にとっても居心地の悪いものだし、私にとっても居心地の悪いものなの。だって私が魚のように飲みたいとか、豚のように食べたいと思っているときに、『でもジェリーはじゅうぶんなお金を持っているかしら? マンハッタンの代わりにビールを注文し、ステーキの代わりにハンバーガーを注文するべきかしら?』とか考えるなんて、実に愚かしいことじゃない。だから割り勘が一番良いのよ。そうすれば自分が食べたいものを好きに食べられるし、窮屈な思いもしないで済む。もしそうすることで自分の男性としての権威が損なわれていると急に思ったりしたら、そのときはそう言ってくれればいい。そうしたらちゃんと君に払わせてあげるから」。P144

この一節を読んだその日、わたしは偶然にも男の子(恋人ではないけれど)と二人で食事をすることになっていた。
わたしはこの一節がずいぶん気に入っていたから、支払いを済ませた酔っぱらいの彼にこの一節を読ませて(おかげで五分ばかり店の外に立ち尽くすはめになった)、千円札を何枚か握らせた。

彼の要領を得ない様子の顔を思い出すと、いまだに口角が自然と上がってしまう。

そう、プーキーみたいなタイプの女の子は、ある種の女の子にとって憧れみたいな存在でもあるのだ。

語り手であるところのジェリー・ペインと、プーキー・アダムズはバスの停留所で奇妙な出会い方をして、大学生のときに偶然のかたちをとって再会した。

それから彼らはしっかりと恋に落ちた。

決して一般化されることのない、彼らだけの愛を持っている恋人たちだった。

一般化される愛とは?
その話をしだすと、ながくなる。

彼らは大学生で、つまり責任の付随しない自由を手に入れた人間たちなのだ。

大学生が「自由ってのには、責任がつきまとうよな」なんて言い出したら、その言葉はそっくりそのまま録音して、彼らが子どもを小学校にあげるくらいに聞かせてやればいい。

「空くらい美しいものは他にない」とプーキーが言った。
「雲くらい美しいものは他にない」とナンシーが言った。
「春のスイカズラの匂いくらい美しいものは他にない」と僕が言った。
「四人の酔っ払った間抜けが、墓場に寝転んで『なんとかかんとかより美しいものは他にない』みたいなご託を並べたてている光景ほど美しいものはない」とローが言った。P243

大学生ってのは、社会というシステムから一時的に外れることを許されている人たちなのだ。
だから、基本的には、何をしてもいい。

けれど本質的には、彼らには何もできない。
少なくとも社会に対しては。

そして二人のあいだで、つまり二人が直面していく社会との関連性の中で、避けがたく歪みが生まれてくるのだ。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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