歳を取ることで失うものと得るもの『国境の南、太陽の西』村上春樹

ジャズ

現実と非現実の儀式的な行き来に存在する、「共通部分」へのアクセス。
ものごとを分析も解説もなしに、そのまま受け入れる力。
潜在への語りかけ。

『国境の南、太陽の西』には、そのような村上春樹の代名詞とも言える小説的要素は、あまり見当たらないと言ってもいいと思う。
むしろ、徹底的に現実に即した、「選択の連続の結果としての今」というある意味でありふれた一人の男の人生を描いている。

しかし、一見してありふれたテーマを、こうも読む者の細胞ひとつひとつを刺激するような言葉で綴れるものか、とやはり舌を巻くしかなかった。

一人でいることを好む感じやすい少年は、かつて淡い恋をした。
美しく、他人を寄せ付けないところのある、足の悪い少女。

思春期を迎え、彼らだけで完結していた世界は、周りの世界と混じり合っていく。
なにかが彼らを遠ざけてしまう。

中学生、高校生、大学生、それからサラリーマン。
少年は、世界との距離を感じながら、あるいはうまく測りながら、大人になっていく。

一人でいることを好むということと、孤独を好むということは同義語ではない。
それは孤独で悶々とした日々ではあったけれど、自分自身であることを貫き続ける日々でもあった。

あまり幸せな時代とは言えなかったし、僕は満たされない思いを抱えて生きていた。僕はもっと若く、もっと飢えていて、もっと孤独だった。でも僕は本当に単純に、まるで研ぎ澄まされたように僕自身だった。その頃には、聴いている音楽の一音一音が、読んでいる本の一行一行が体にしみ込んでいくのが感じられた。そういう時代だったのだ。P132

そんな少年も、愛する女性と結婚し、人生を拓いていく。
自分の性に合った仕事を見つけ、子どもたちに恵まれ、何ひとつ不自由ないと言っていい暮らしを手に入れる。
彼はもう、孤独ではなくなる。
彼は、「幸せ」になる。

そして、かつての少女が突如彼の人生に現れる。
イノセントな関係を、現実に持ち込むことは果たして可能なのだろうか?

いまでは彼は、あまりにも多くのものを持ちすぎてしまった。
幸せと引き換えに、何でもかんでも自分のことだけを天秤にかけて物事を決められる立場ではなくなってしまった。

果たしてそれは「善きこと」なのか?

妻と娘を愛することと、かつての少女を愛することは、同じ文脈で語ることのできることなのだろうか?

自分、とはいったいどこに存在するのだろうか。

結局のところ何もかも演技に過ぎなかったのではないかと思うこともあった。僕らは自分たちに振り当てられた役柄をひとつひとつこなしてきただけのことではなかったのか。P276

この物語の主人公でもある彼は、彼なりに、ありふれた人生を生きる一人である。
隣にいる誰かも、きっと似たような思いを抱えて生きているのかもしれない。

何かに追われているのはあなただけではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのはあなただけじゃないのよP295

けれど同時にそれは、決して一般化されない類のものごととして、人を孤独にさせる。
だからこそ人は、本当の意味では分かり合えないと知りながらも、共に生きようとするのかもしれない。

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