人間としての最初の記憶『芝生の復讐』リチャード・ブローティガン

芝生の復讐

人間としての最初の記憶を覚えているだろうか。

わたしにとって幼い頃の記憶というものは時系列がめちゃくちゃになっていて、どれが最初かわからなくなっている。

幼稚園の先生が結婚(だったと思う)退職をするときに、ぐちゃぐちゃに泣いたこと。
幼稚園の教室の隅に、きらきらと銀色に光る物が落ちていて、それを必死で集めたこと。
阪神大震災のときにいとこ家族が家にやってきたこと。

どれも夢の話のようで、本当に自分が体験してきたことなのか区別がつかない。
あとから親に付け加えられた記憶なのかもしれない。

思うに、記憶や過去というものは、過ぎた時点でシャボン玉のように影も形もなくなってしまうのかもしれない。
わたしたちは、ただその残像にしがみついているのかもしれない。

『芝生の復讐』の語り手にとっての「人間としての最初の記憶」は、
ある日祖母のもとにやってきてそのまま三十年も居座ったセールスマンが、庭の梨の木を切り倒し、灯油をかけて燃やした光景からはじまる。

リチャード・ブローティガンの入り口として、『芝生の復讐』が最適だったのかどうか、よくわからない。

アメリカの鱒釣り』でも、『西瓜糖の日々』でもなく。

どうしてこの本を選んだかと言うと、単にブックオフのセールでたまたま目についたからという他にない。

小説の好き嫌いなどというものは人によるのだから、
本との出会いは実にこういうものであるべきで、だからこそページをめくるたびに新鮮なときめきが胸を打つのだ。

詩人でもある作者の紡ぐ文章は、隠喩などという生易しいものではない。
世界を見つめる視点として、人間であることが「単なるひとつの選択肢」でしかないことを見せつける。

詩には詩の人生があって、
郵便局には郵便局の人生がある。

そしてシャボン玉は、そのドラスティックな人生をトラックとの正面衝突で終える。

ごく自然で簡易な言葉の組み合わせが、まるで魔法にでもかかったように独特の世界を作り上げる。
訳文になっていても、その美しさは損なわれることがない。

陽の光が当たりにくい翻訳家という職業だけれど、藤本和子という訳者にも敬意を表さずにはいられない。

ちょうど、フィンランドの友人の日本旅行記を訳し終えたところで、翻訳という仕事の難しさと奥の深さを体感してきたところだ。

難解というわけではないけれど、感じることに労力が必要な一冊だった。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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冬に元気をなくす母親と、影の薄い善良なフィンランド人の父親を持ち、ぼくは彼らの経営する瀬戸内市の小さなリゾートホテルで暮らしていた。ある時なんの前触れもなしに、ぼくにとって唯一の友達であったソウタが姿を消した。学校に行くことをやめ、代わり映えのしない平穏な日々を過ごすぼくの生活に、少しずつ影が落ちはじめる。

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