現実は記憶になる運命を『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン

物語は、広い意味の芸術で、芸術というのはそれはもう、見る人の主観に委ねられる。
評価というものそれ自体が意味を持たないこともある。
時代が、時間だけが評価を与える場合もある。
けれど、本物というのはたぶん、時間軸や大衆のきまぐれなどはそっちのけで、
圧倒的にそこに存在しているのだろう。
リチャード・ブローティガンの選ぶ言葉、文章の積み方は、わたしたちの自然な予測を毎秒のように裏切る。
だから、すらすらと電車の中で時間潰しに読むことはできない。
じっと、リチャード・ブローティガンだけを見ています、という体制を取らなくては、やたらめったらでたらめに言葉が並んでいるようにさえ見えてしまう。
そして、訳者の存在。
藤本和子というその人は、彼の選んだ言葉の核心を決して損なわないように、それでいて文章の美しさをしっかり保った日本語を実に巧妙に(という言い方が正しいか)持ち出している。
例えば、以下のような場面。
太陽は巨大な五十セント銀貨のようだ。だれかがそいつにガソリンをぶっかけ、マッチを擦って、「ほれ、新聞を買ってくるあいだ持っていなよ」といって、それをわたしの手にのせて行ったまま、とうとう戻ってこなかったといった按配だった。P21
こうして、わたしは女と寝た。
まるで永遠の五十九秒目みたいだった。ついに一分になると、なんだか気恥ずかしくなるようなーー。P51
こんな文章を見せられた読者は、手が震え、喉がきゅるると鳴り、すっかり興奮してしまう。
次の文になかなか進めなくなってしまう。
この本に書かれているのは細切れの日常、ということもできる。
ありふれた、アメリカで起こった、鱒釣りについての、小さな物語たち。
それでも、そのなかの現実、解釈、妄想、その他の「境界線を曖昧にするものたち」が、「鱒釣り」というカテゴリーでなんとかひとところにとどまるのだ。
それは、なんとかクラスというものを保つために、いたずらっ子たちが同じ色の帽子をかぶっているのに似ている。
わたしにはそんなふうに見えた。
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ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。
文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。
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