石鹸を食べること『私自身の見えない徴』エイミー・ベンダー

石鹸を食べること『私自身の見えない徴』エイミー・ベンダー

大学で教える傍ら、現代アメリカ文学の舞台で活躍する著者。

新しい海外の作家をなんとなくネットで探していて、たまたま見つけた。

メルヘンチックな表紙。それでいてどこか狂った影を感じさせる雰囲気。
「徴(しるし)」が「黴(かび)」に見えて、妙に興味をそそられた。

本との出会いなんて、そんなものだ。

主人公であるモナは、まだ十九歳。

十歳のころから「止めること」をはじめたモナが唯一止めなかった数学。
十九歳の誕生日、長く実家にいすぎたからと主張する母親に追い出されるように家を出たモナは算数の教師になった。

これは子供から大人へ、というような単純な物語ではない。
家にいようと、ひとりで暮らそうと、モナはモナなのだ。

石鹸を食べる彼女を「狂っている」「病んでいる」と表現するのもまた違う。

むしろ彼女は、世界に生き残った数少ない「まとも」の一人なのかもしれない。
そう、どこまでも、あまりにも「まとも」すぎて、わたしたちから遠く隔たった場所にいるように見えるのだ。

子供たちは、例に漏れず手に負えない。彼らは彼らの法則に従って生きているのだ。
モナの日常がやかましくなる。

父の病、隣人のロウソク、理科の先生。
モナの日常はモナだけのものではなくなっていく。

世界はあなたに参加を求めるけれども、その申し出をあなたが受ける気になるかどうかは、日々の決定だ。P156


すべてが順調に進行していくなら、私たちはさびしさを抱えつつも生きてゆく――まず泣きそれから歩くのだから――だろうが、私たちを何よりもこてんぱんに打ちのめすのは、順番をはずれて何かが失われるとき。P269

そして最後のほうで、問題児の女の子が発したひとことに、はっとしてしまう。
リサという女の子が目に涙をためた理由。

すべてはそこにあったのだ。彼女が伝えたかったこと。

裏表紙のあらすじが的を射ていないと思うことは多々あるけれど、これはその代表例みたいなものだ。

あらすじだけでは、この本はわからない。

何よりもびっくりしたのは、訳者が男性だったことかもしれないけれど。