甘えられないから、甘ったれになる人たち『甘えの構造』/土居建郎

ラジオをたまに聞く。
本を読むのも映画を見るのも億劫で、だからといってただぼんやりとしているのもつまらない、そんなどうしようもなく体たらくなときに。

最近知ったのだけれど、radikoというインターネットでラジオが聴けるアプリには、放送大学のチャンネルがある。

過去の放送大学の授業をたぶんそのまま放送している番組で、様々な分野の専門家の話が無料で聴ける。

その心理学の講義で、本書を知った。
『甘えの構造』
このタイトルの秀逸さに、思わず唸ってしまう。

大正時代に生まれた精神科の医師である土居氏によって、なんと50年も前に書かれた本であるのに、驚くほど古びれていない。
本書で「現代」と云われている時代は、まさにわたしたちが生きる現代のことを書いているように思われるのだ。

裏を返せば、我々の社会が抱える精神面での課題は、この半世紀まったく進歩しなかったのではないかと思わされるくらいに。

甘えられない甘ったれ

本書では、「甘え」という言葉が多く出てくる。
それは悪い意味だけではなくて、本来の日本では「甘える」ということが信頼関係のひとつの発現として自然にできていたのに、それがなくなってしまった現代では、「甘やかし」「甘ったれ」が蔓延し、それが日本人の精神的な健やかさを失う結果に結びついていると著者は指摘している。

被害者意識を持つ人間はただに個人的に被害感を持つばかりでなく、被圧迫民族・困窮者・精神病者など被害者一般と同化している。彼らはまさに甘えられないから被害者なのであるが、それでいて被害者としての立場に甘えているといえる。P38

この記述はまさに、精神疾患に罹った人たちが、治る準備はできているのにも関わらず「治りたくない」という心理に陥る点を指摘していると言える。

自由と集団心理

次に土居氏は、自由について言及する。
西洋では良き文脈で語られる「自由」が、日本では古来からわがままであることとほとんど同義として、いい印象を持たれなかったことを前提に、西洋での「自由」の定義と日本のそれがごちゃまぜになることによる混乱を指摘する。

日本人に好きな言葉を聞くと、自由よりも先に「努力」「忍耐」「信頼」が上がることも日本人の集団における和を重んじる姿勢が現れていて面白い。

西洋における自由は人間の尊厳を示すものでこそあれ、非難されるべき筋合いのものではなかった。このために自由という日本語は近年、西洋的なよい意味と日本的な悪い意味の両者をあわせ持つようになり、その概念が極めて曖昧模糊としたものになっている。P132

一方で、集団での和を重んじる日本人の特性には危険も孕んでいると筆者は述べる。

さてこのような傾向はなるほど一見よい結果を生むのであるが、しかしだからといって手放しで安心しているわけにもいかない。それというのは、よく集団心理といわれるように、集団は得てして万人に共通した人間の最も低い衝動によって動かされることが多く、これに対する個人の抵抗が全く封じられてしまえば、付和雷同や迎合以外に個人のとるべき道はなくなってしまうからである。P220

大戦時の愛国精神を彷彿とさせるが、日本人というのはいとも簡単に集団心理に染まりやすいもののようである。
「隣の○○さんもそうするみたいだから」
「全体の8割の人がこちらを選ぶみたいだから」
と、自分の意思を集団の意思に合わせに行く能力があるようである。

しかし、たとえ自分は腹のうちで違うことを考えていたとしても、それが集団を前にすると押し殺さざるを得ないとき、それはやはり「自分がある」とは言えない状態なのだと筆者は述べている。

集団所属によって否定されることのない自己の独立を保持できる時に、「自分がある」と言われるのである。P218

大人になることと、鬼征伐

次に、学生運動などに参加した青年たちの心理についての考察。
ここには、大人のロールモデルの不在ばかりではなく、敵の不在も指摘される。

彼らは両親から保護と愛情は受けていても、大人になることについてはなんら指導を受けていない。大体両親がどういう点で彼らと違う大人であるかもわからない。
そこで彼らにもまた自分のエネルギーをぶつけるために鬼征伐が必要になる。この場合一昔前のように外敵が存在したならば、それが格好の対象となったであろう。そしてこの外敵をやっつけるということで、少なくとも親子は一致することができたであろう。
しかし今日の世界は仮想敵国の存在すら容易に許そうとしない。これは日本にとってばかりでなく、米国にとっても、その他の先進国にとっても然りである。かくして鬼は外敵ではなく、自国内の勢力者たちとなった。青年はこの鬼を征伐せんとして、若き情熱をたぎらせているのである。P240

有り余る若きエネルギーは革命を求める。
悪しきを征伐し、善きを作り上げる。
そのような欲求に答えられる大人、社会、わかりやすい外敵はもう存在しない。

そこで彼らは、清き正義感を持って自国の勢力者たちに立ち向かったのだ。

科学文明の限界

ではどうして大人たちは、子どもたちに自分たちの背中を見せてやれないのか。

それは大人たち自身も、迷い不安でいるからだと筆者は言う。
大人たち自身も、自分たち、その祖先たちが作り上げてきた世界や価値観を信じられないでいる。

価値観。この100年ほどのあいだは、理性による科学文明の発達がそれを担ってきた。
より便利に。
より高度に。
そのさきに幸福があり、豊かさがある。

そこに疑問が生じはじめたのだ。
「我々はいったいどこへ連れて行かれてしまうのだろう」

しかし流れを止めることはできない。

すなわち現代人も自らの理性に依り頼んであらゆることを試みた後、自己に絶望しはじめている。たしかに科学文明は人間の力を誇示した。しかしそれはもはや往年のごとく人間にとってインスピレーションとはならない。人間は生命的枯渇感を覚え、これを恢復するため今一度裸の人間にかえって感性的に生きようと決心する。そしてこの新たな探求は、ファウスト劇の最後の言葉が暗示するように、母性的なものへの憧れ、いいかえれば甘えに導かれているように思われるのである。P246

理性がだめなら感性に。
土居氏が繰り返し述べる「甘え」は、まさにこの感性への帰還の途中で、いびつにそのバランスが入り交じることによって生じているのかもしれない。

50年も前に本書が書かれているということが、何よりもわたしを怖がらせる。
この世界はどうなってしまうのか。

なにかできることはあるのか。
希望はなく、罪悪感を感じる権利もない。
それでもやはり、無自覚と自覚との間には大きな差がある。

まずは自覚するところからはじめるのに、本書は最適な教科書となった。
本文での引用は「つまみ食い」のような形になってしまい、本来の著者の意図がうまく伝わらなかったところもあるかもしれないので、興味のある方は読んでみてください。

書いた人

ちひろ
ことば、文字、文章。
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文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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