『愛について語るときに我々の語ること/レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)』

「語らずして語る」というようなことが言われることが度々ある。
レイモンド・カーヴァーという作家は、その代名詞みたいなものかもしれない。

もちろん時代的なこと、国を越えた文化的な違いなど、日本の読者にしてみればわかりにくくなってしまう条件が揃っているからかもしれない。

それでも、わたしはまだまだ彼の作品を「理解」できていないと思う。

「読書は、100%自由な行為だ」というようなことを村上春樹が言っていた。
その言葉に大いに賛同し、本を選ぶときも読むときも、頭ではなく心身で読んでいる。

わけが分からなくても、その文体が紡ぎだすリズム感のようなものに身を任せて読みきってしまうこともある。

けれど、五年前に読んだ本を今読み返して「あああ!」と思うことがあるように、きっと優れた本には「ここだ!」というポイントを超えたところでしか理解できない含みのようなものが存在していると思う。

それを、どうにかわかるようになりたいものだと思いながら、日々本を積み重ねている。

レイモンド・カーヴァーは、短編の人と言ってしまっていいような気がする。

何の説明もなしにいささか不親切なまでに、唐突に始まる日常の風景。

それは、ひどくリアルなものであり、決して映画の派手なシーンにはなりえず、それでいて牧歌的なありふれた風景でもない。
わたしたちが暮らしている生活とほとんど背中合わせで並行している、ある意味でのありふれた悲劇のようなものが刻み込まれている。

読んでいる時は、全く自分のことのように共感して読むことなどできない。
けれど、冷静になってみると、それらの短編では、実に巧妙に、そして生々しく「生活」が描き出されている。

例えば、「菓子袋」。
妻の仕事仲間である女性と関係を持ってしまうある男。
それが原因で、夫婦は離婚する羽目になる。
場面は、そのだらしがない男が自分の息子を相手にバーでその話をするところ。

不思議なことに、父親としての男に、情けなさというものをあまり感じられないのだ。
やっていることは決して褒められたものではないのだが、その時の彼にとっては自然な流れであり、それに逆らうことなど彼の意思ひとつでは決して不可能であったかのような。

それを聞く息子は、もういい大人である。
何もかもをわかった風な、達観した考えの持ち主。
そんな息子に慰められ、父親は最後には「きちんと」情けない父親像をちらりと見せる。

そこで話は終わってしまう。

ぷつり、ぷつりと断片だけを見せられているような心持ちになる。

そうしてレイモンドは、時にわたしたちの背中から大声で叫んだり、時にわたしたちの耳元でそっとささやいたりする。

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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