『ビギナーズ/レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)』

作家の人間性は、作品そのものとは関係がない。
作者がどんな人であれ、どんな生活を送っていようと、いいものはいいし、駄作は駄作だ。
そんな風に思っている。

けれど、
レイモンド・カーヴァーという作家のことを知るにつれて
どんどん作品への見方が変わってゆく。

彼はブルーカラーで、アル中だった。
教養もなく、彼が小説家で名を成すためには、周囲の手助けが不可欠だった。

そんな時、ゴードン・リッシュという編集者との出会いがあった。
リッシュは、レイモンドの作品を世に出した敏腕編集者だ。

同時に、あまりにもレイモンドに入れ込み、そして嫉妬していた。
彼はその天才的な編集技術をもって、レイモンドの作品に大きく手を入れ続けた。
その作品の持つ、精神的な弱さだとか小さな勇気、ささやかな優しさをごっそりと抜き取り、そこに芸術的な沈黙性を付与した。

レイモンドは、恩義のあるリッシュの為すことにうまく「ノー」を言えないでいた。
もちろん、作家にとっては作品に大きく手を入れられることは気持ちのいいものではないだろう。
けれど、レイモンドは病んでいて、自信を失っていた。
リッシュに魂を預けてしまっていた。

先日、ここで『愛について語るときに我々の語ること』という短篇集を紹介した。
実は、今回読んだ『ビギナーズ』は、そのオリジナル版なのだ。

『愛について〜』を刊行する時、例によってリッシュはレイモンドのオリジナル文章を大きく削り、文章を入れ替えることによって、より引き締まった(そして難解で隠喩的な)文章に仕上げていた。
これに対し、レイモンドは痛々しいまでの遠慮がちな抗議文をリッシュに宛てている。
そして、そのささやかな抗議は無視され、『愛について〜』は刊行された。

読み終えた感想としては、『ビギナーズ』に収録された短編はどれも場面設定が親切にしたためられ、レイモンド自身が乗り越えようとしている様々な障壁がありありと描き出されている。
もちろん時代を反映して、差別的な表現や過激な表現も含まれている。
それらは生々しく、現実味がある。
物理的に『愛について〜』の二倍の長さがあるのだから、その分多くが語られる。

確かに、芸術性という観点で見ればやや冗長的な表現であることは否めないのかもしれない。
けれど、こちらのほうがより人間的で、よりレイモンド・カーヴァーという人そのものに好感が持てる内容だったように思う。

このオリジナル版を発掘し、翻訳にこぎつけてくれた村上春樹氏に感謝。

「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べて下さい。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、ものを食べることです。ささやかなことですが、助けになります」P193

これは、息子が事故に遭った夫婦に対して、バースディケーキの予約を受けていたパン屋が掛ける言葉。
漫画ONE PIECEでも、兄を失ったルフィに対してジンベエが似たような言葉をかけていた。
我々は、頭でものを考えすぎるのかもしれない。
どうしようもない場面に直面した時、人間が肉体を維持していくための「食べる」という行為が果たしてくれる役割は大きいのかもしれない。

「私は私のやり方で行く。もしそれがみんなの気に入らなければ、おあいにく様。私が言いたいのはね、ただこういうことなの。でも決して否定的な意味で言ってるんじゃないのよ。私はね、あなた達が五年後も、いや三年後だっていいんだけれど、今と同じように仲睦まじく愛し合っていることを心底願っている」P450

これは、二組のカップルが酒を飲み合いながら愛について議論を交わす場面。
愛とは何か?
それを抱えて生きることとは?

一人で生きていくにも、誰かと生きていくにも、自分が自分のやり方を曲げなければ成り立たないような世界なら、きっと私たちは生きてはいけない。

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)』との併読必須。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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