『遠い太鼓/村上春樹』

以前読んだ本の再読。
村上春樹のエッセイで、一番好きな一冊。

ギリシャ、イタリアなどに滞在しながら、『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』などを書き上げる三年間を綴った旅行記。

どうして海外に長く滞在することにしたのか?
そこには、他の邦人作家とは一線を画す彼なりの考えや性格が関連している。
彼はそうすることを選び、またそうするより他になかったのだというほうが近いかもしれない。

わたしはその要所要所で深く共感し、それらの言葉がじんわりと心に染み入る感覚を楽しむ。
村上春樹のいいところは、読むタイミングやその時の自分の状態で、全く入ってきかたが違うということだ。

思うのだけれど、彼が書いた小説なりエッセイなりがこれだけ世間で評価され、人々の共感を得ている(だから売れているのだと思っているのだけれど)のに、どうしてわたしはこうも生きづらいのだろう?
人生の楽しみ方、考え方において人々とのギャップに苦しむのだろう。
みんな多かれ少なかれ無理をしているのだろうか。
それとも村上春樹を読むことはあくまでファッションで、そこに深く共感を覚える人は少ないのだろうか。
まぁいい。
本の楽しみ方なんて、人それぞれだ。

わたしは曲がりなりにも、やっと素直な自分を出せる環境を作り出せそうなのだ。
あるいは今のわたしには、たまたま内向的な面が強く出ているのかもしれない。

村上春樹は、楽観的だ。
少なくとも、本人が言うところによると。
だからこそ、こんなにも大胆な選択をしながら生きていけるのだろう。

ここには、彼の小説に対するスタンス、生き方が詰まっている。
少なくとも、1986年秋から1989年秋までの彼が。
私がまだ生まれてすらいない頃だ。
けれど、今の彼はまたきっと違う。

本の最後に、印象的な文章があった。これが全てを表していると思う。
引用したい。

文章を書くというのはとてもいいことだ。
少なくとも僕にとってはとてもいいことだ。
最初にあった自分の考え方から何かを「削除」し、そこに何かを「挿入」し、「複写」し、「移動」し、「更新して保存する」ことができる。
そういうことを何度も続けていくと、自分という人間の思考やあるいは存在そのものがいかに一時的なものであり、過渡的なものであるかということがよくわかる。
そしてこのようにして出来上がった書物でさえやはり過渡的で一時的なものなのだ。
不完全という意味ではない。もちろん不完全かもしれないけれど、僕が過渡的で一時的であるというのはそういうことを意味しているわけではない。
僕には今でもときどき遠い太鼓の音が聞こえる。
静かな午後に耳を澄ませると、その響きを耳の奥に感じることがある。
無性にまた旅に出たくなることもある。
でも僕はふとこういう風にも思う。
今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。

少し長いけれど、これは今のわたしに深く響いた言葉たちだった。
人の書いた文章を読むことのいいところは、そこから誰もが十人十色にメッセージを受け取ることができるところにあると思う。
特に村上春樹の場合、メッセージの受け取り方を読者に委ねる書き方をしているらしいので、余計にそう思う。

今自分の思っていることやしていることが、過去の自分や未来の自分から見てどう映るのかはわからない。
正しいかどうかもわからない。
けれど、少なくとも今の自分が素直に感じて行動しているのならば、それでいいんじゃないか。
今の自分にできることは、今の自分を生きることだけなのだから。

そんな風に言っている風に、わたしには聞こえた。

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