『職業としての小説家/村上春樹』

※かなり長くなってしまったけれど、わたしの中でひとつ重い鍵が外れ、大きな扉が開いたきっかけとなったので、もしこれからもわたしという人間と長く付き合っていってやろうという方がいらっしゃれば、読んでいただけるととても嬉しいです。
「声による会話」では、うまく自分を説明できないたちなので。

小説を書くことに関する、僕の見解の(今のところの)集大成みたいなものとして読んでいただければと思う。(あとがきより)

彼自身がこう語るように、この「自伝的エッセイ(という扱いを受けている本書)」には、彼の目から見た小説というものを、系統立てて語っている。
「彼の目から見た」というこの点について、彼は何度も強調している。「これはあくまで僕の場合」「すべての人に当てはまるとは限らない」「そもそも比較対象がない」などと繰り返して。

構成は、村上春樹という人間が小説を書くに至るまで、そして小説を書くということ、小説に求められること、誰のために何を書くのか、そしてテーマは日本の教育にまで及ぶ。

そして、それらを語るにおいて、彼は大前提を置いている。
それは、タイトルにもなっているように、「職業としての」小説家であるために、彼が続けること、そしてそのあり方のようなものを記しているということ。
つまり食っていくための職業として、そして専業作家として物を書くということ。

それは、「読者」を少なからず意識する必要があるし(というか意識せざるを得ない)、また長く書き続けるにはフィジカルな面での健全さなどを含めたいくつかの点があるとしている。

繰り返しになるようだけれど、これはあくまで「村上春樹という人間が、小説を職業として長く書くにあたって、自ら体得した」ということなのである。

つまり、これから小説家を目指すもの、また広く言えば何かを目指したり、何を目指したらよいかわからない人に対する「教科書」的存在では決してない。
この本を「教科書」と位置づけてしまった時点で、誤解を恐れずに言えば、この本の意味のようなものはすっかりなくなってしまうように思う。

かく言うわたしは「教科書人間」として四半世紀を生きてきた。
学校の勉強には常に正解があり、教科書を覚えさえすれば事足りた。
もちろん少なからぬ努力はしたけれど、進むべき方向性を自分で切り拓いていく勇気みたいなものは、教科書には載っていなかった。

大学に入って間もない頃に村上春樹に魅せられてからも、その傾向はなかなか取れてはくれなかった。

それからあらゆる本を読み漁り、「なるほど」「うんうん、そうだな」「わたしはまさにこう思っていたんだ!」という言葉に出会う度に、それらを自分の中にストックし、
そして、そのストックは、村上春樹から授けられた割合が圧倒的だった。

だからわたしは、彼をどこかで信奉しているところがあり、彼の言うことに共感することで自分を慰めた。ひとりじゃない、と。
あるいは彼に共感することで、世界を深く見られたような気分になりさえした。
そして、時には「そうか、こう考えればいいんだな」と半ば鵜呑みにさえした。
それはある時期には有効に働いた。

けれど、徐々に時が経つに連れて、それはいい傾向なのだとわたしは信じたいのだが、彼の言うことの中にも「これはちょっと違うんじゃないの」と思うところが出てきた。
要するに、わたしの中で「村上春樹的自我」とも呼べるものが芽生え始めたのだ。

この頃からわたしは自分で物を書き始めるようになった。
相変わらず彼の書く文章には、じんわりと内側に染みこむような快感を覚えるし、生き方や考え方のスタンスのようなものも、激しく共感するところが多い。

そして、今回の『職業としての小説家』に至る。
これは彼自身においても、「そろそろいい年齢に差し掛かっているし、ここらでとりあえず総まとめのようなことをしておこう」と個人的に感情が発露したのだろう。

連休中は次の日を気にしなくていいものだから、二日間夜更かしをして一気に読み終えた。(通常就寝が 22時の人間が0時まで粘ったまでのことです)

そして読み終えた。
こういう表現は少し照れくさいのだけれど、わたしの中にブレイクスルーが起きた。

「この人とわたしは、決定的に違う。けれど、つながっている」と。

うまく言葉で説明できないのだけれど、今までのわたしは、「村上春樹が早起き」だとか「人前にあまり出ない」だとか「小説を書く姿勢」なんかをエッセイとして書くのを目にする度に、自分との共通項を探した。
そして、安心していた。
さらには、彼の小説で共感する部分があると、その言葉を取り上げて、それをきっと作者の意図せんところの意味において理解できたであろう自分を探し、悦に浸った。

言うなれば、「わたしの心の友はこの人だけ」みたいな感覚だ。
わかってくれていて、それでいてわかっている。作者と読者にしか見えない、世界の深いところを見ている気分になれた。

けれど、この本を読んで決定的になった。
それは、近頃の自分がわりに吹っ切れていたことも影響しているのかもしれない。

もう、自分で決めるしかないのだ、と。
自分で考え、誰かに褒められるためじゃなく、自分のために自分の人生を決定していくしかないのだと。
そしてその責任まで、自分で取るのだ、と。
誰かが示してくれた道筋を辿って、それをうまくこなして、その誰かを満足させることはたしかに楽である。
失敗すれば、「おまえがこっちだと言うから」と責任転嫁できる。

生身の体を持って生きるというのは、そうではないのだと、頭だけではなく、肌の実感として25歳にしてようやくそんな風に思えるようになってきていたというタイミングで読んだからかもしれない。

ここには確かに、村上春樹というベストセラー作家が小説を書き始めた経緯、彼が小説を書く際の習慣、彼なりの自己分析、生き方が綴られている。
そして、これは彼の伝え方が巧いからわたしにも理解できたのだろうけれど、
「この時代に生まれ、この家庭環境で、この肉体を持ち、この選択を自らの意志で取ってきた彼にしか当てはまらない」ことだった。

読者として、わたしはある期待を持ってこの本に取りかかった。
「物書きを目指す自分にとって、何かヒントが得られるかもしれない」と。
実際に、柴田元幸さんが書いた帯にも、そんな言葉が書いてあった。

そして、期待は見事に裏切られる。
とてもいい意味で。

ここには、「わたしが」物書きをするにあたって倣うべきようなことは、ほとんど何一つ書いていなかった。
あくまで村上春樹の個人的な体験であり、感覚であり、セオリーだ。
当たり前といえば当たり前だ。
村上春樹は、「村上春樹」というフィルターを通してしか、世の中を生きてきてはいないのだから。

読者であるわたしがすべきことはたったひとつ。

「好きな作家が、自分の生き方を、その職業における想いを自分なりに(現時点で)まとめたこと」を、自分自身の頭、体、魂に通過させることだった。
それによって、「わたしは村上春樹になれない」と真の意味で悟ったし、それはある意味で「物書きとしてのヒント」を得たことになるのかもしれない。

とはいえ、結果的にこの本には無数の付箋が貼られることになった。
例によって彼の言葉には、わたしの中に留めておくべきだと直感的に感じる箇所がいくつもあり、その共感こそがこれほどまで(そして恐らくこれからも)わたしを魅了し続け、救い続けてきたのだから。
あるところは、自分のモヤモヤのピースをぴたりとはめてくれる言葉。
また違ったところでは、「へぇ、こんなやり方や考え方もあるんだ」という発見。

それが正解なわけではないと腑に落ちた時点で、逆にするすると自分の中に入ってきだしたのだ。

そして、わたしの感じるその共感には、彼との間のある種の「つながり」のようなものを感じる。
いくらかおこがましいかもしれないけれど。
そして、彼がすでに60を超えていることに初めて恐怖を感じた。

「別に明日死んだっていいや。
でもあえて死ななくてもいいや。
死なないとすれば、本を読んで物書きにはなりたいな〜。だってそれしかできそうにないし、それしかこの世には楽しいことがないから」
そう思っていた。
本当に、この本を読むまでは。

けれど、彼が60歳という事実は、わたしが少なからずこの世界に愛着を感じていることを発見させた。

この人の考え方、世界の捉え方、見つめ方。
そして、人間存在における小説というものの役割に対するスタンス。
性格も生まれた時代も性別も生活習慣も、何もかも違うけれど、一番底のところで大きく頷くことができる。

そして、彼が死んでしまったら、どうしたらいいのだろう? と率直に怖くなった。
それは、単的にわたし自身の慰みをどこに持っていけばいいのかということに加え、これから世界はどうなってしまうんだということ。
大げさかもしれないけれど、こういう風に世界を見つめる視点を、世界から絶やしてしまってはいけない、と強く思った。
それは何も、この世の全ての人がこのように世界を見つめるべきだ、というのでは決してない。
むしろ、限りなく少ないかもしれないけれど、ゼロにしてしまってはいけない、という感覚に近い。

そして、これからの時代を生きるにあたり、この視点から、この深さから、物語というツールを通して世界のバランスをいくらかでも調整していくのだ、と思った。
物書きとしてのわたしが。

世界に期待なんてしていないし、こんなところが崩壊しようと知ったこっちゃない。
そんな冷めたような気持ちが、厚かましいほどの使命感に変わった。

もちろん、わたしは村上春樹にはなれない。くどいようだけれど。

けれど、今の時代を生きて、見聞きして、今の時代のやり方で、わたしは書いて伝えていきたいと思った。
「わたしがあくまで個人的に、人間にとって大切だと思うこと」を。
ストレートに簡潔にまとめることは難しそうだから、ぜひとも物語の手を借りたいのだ。

どんなにおかしな方向に世界が進んでいようと、ちゃんと物を考えられる人はいる。
流れに身を任せて生きるのは、あるいは精神的には楽かもしれないけれど、一応「考えることのできる頭」という肉体を持って、人間として生まれたからには、これらをフルに活用して、世界(少なくともわたしの周りに広がるだけの)の核の核のまた奥まで見てみたい。

そして死ぬ時に、全てを理解することはできなくとも(というかそれができてしまった時点で、あるいはそう感じてしまった時点で、人生はとてもつまらなくなる)、ある程度の納得感を持って死にたい。

書いていこう。
とにかく、書いていこう。
伝わる人には、伝わる。

そのために、もっと深くまで物ごとを見つめる力と、多少疲弊するくらいの経験と、伝える力をつけなければ。
駄目なら駄目で、それでいい。
納得の行くところまで。

うまくタイミングが味方してくれるといいのだけれど。

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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