生まれ変わる者、取り残される者

「さてと」
と、僕はそれまで使っていたPCを閉じる。

先刻まで煌々と光を放っていた画面は、今や闇と静寂に覆われている。
今日の活動を終え、次に来るべき時が来るまで、一休みというわけだ。

時刻は昼の12時を半時間ほど回ったところだ。
そういえば少し腹が減ったような気もする。

この生活を始めてから、僕は随分と生きるのが楽になった。

朝の5時だか6時だか、太陽が起きだす頃に相棒を起こし、カタカタと音をたてる以外は実に平和に、音もなく仕事をする。
たまに癇癪を起こす僕の相棒は、それでも僕が仕事を快適に行うには十分すぎるほどの優しさをもって接してくれる。

僕が彼女を正午に眠りにつかせてやるのは、せめてものねぎらいなのだ。
とは言っても、たびたび働かせすぎてしまうのだが。

この朝の時間を、僕は僕の命を守るために費やす。少しだけ消費をして、生命の基盤を得る。

そうしてしまえば、一日のうちの残りの時間はもう僕の自由になる。
近くの市場に家族の好物を買いに行き、新鮮な果物を自分のために切り分ける。

そして、彼女に声を掛け、機嫌が良さそうなときは僕の相手をしてもらう。
もう彼女を通して仕事をする時間は終わっている。

ただ僕の話を聞いて、一緒にお茶でもするかいと誘うのだ。
彼女は気まぐれだけれど、一度そうと決めたら僕の話をとことん、じっくりと聞いてくれる。
そうしてくれると、僕も筆が進む。

物を書くということは、自分の中にある感情や経験や考え方なんかを、どれも少しづつ取り出して言霊に乗せるということだ。
少なくとも僕はそう思っている。

そうしていると、けだるいような心地いい疲れが僕に振りかかる。

さて、そろそろ散歩にでも出かけようか。
僕は小さな文庫本を携え、家の近くをあてもなく歩き出す。

木曜日の午後4時。この村にいる住人は何をしているのだろう。
ある老人は孫との時間を慈しんでいる。
エネルギーに満ちた少年たちは、僕に挨拶をしたかと思うや、川に飛び込んでいった。

僕は背の高い石に腰掛け、持ってきた本のページをめくる。
たちまち僕を取り囲む世界は一瞬にして本の中の世界へと様変わりする。

主人公に危機が迫る場面では、よく晴れた青空の下に佇む僕の手は汗ばむ。
いつだって、どこだって、僕は世界を超える。

帰り道すがら、声を掛けられる。
「今日はひとりかい? ゴホッ」顔を上げると、目の前に立つ家が僕に話しかけている。
くすんだミントグリーンの壁に、目となる窓が2つ、口となる雨よけがその下についている。

僕はまだ返事をしない。

「また僕の2軒隣で解体が始まったよ。埃っぽくてかなわんね。君たち人間たちは、何でも新しくなきゃ気がすまないのかい? あの家はいい家だったよ」と、彼は顔をしかめる。

「ちがうんだ。僕たちは進化を続けなくちゃいけないんだ。それがいいか悪いか、意味があるかどうかなんて、後から誰かが考えればいい」

僕のような、僕でないような声が応える。

僕は夕飯の支度をするために、建て替えたばかりの自分の家へ足を向ける。

あとがき

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