ハイボール199円

もうセミの声は聞こえない。
醒めるように青い空は、段々と秋の空へと変わりつつある。
夏は終わる。
秋のために。
また来年、ちゃんと夏が来るために。

それは、まだ蒸し暑さの残る8月の夕暮れだった。
あたしは、5歳年上の上司と、会社帰りに十三駅で飲んでいた。

梅田から阪急電車でほんの数分。
けれど、ここには最近の梅田のような華やかさはない。
天満や福島のような、ザ・飲み屋街といった雰囲気もないし、
かと言って、うらぶれた路地裏というわけでもない。

ほどほどに、何の特別感もなく飲むにはちょうどいい場所だった。
会社から電車で1本で来られる、というのが主な理由だったけれど。

「だからさ、」
目の前の上司は言った。

あたしたちは、お好み焼き屋に来ていた。
本当は、蕎麦が美味しい小さな居酒屋を目指してきたのだが、残念ながらそこは満員で、お腹をすかせていたわたしたちは仕方なく(と言っては失礼だが)、ビールとハイボールが何杯でも199円だと謳ったお好み焼き屋に入ったのだった。

その上司は、ほいっ、っと器用にイカ玉を鉄板の上でひっくり返す。
彼女は、上司や部下関係なく、鍋奉行がわりあい好きなタイプなのだと言った。
まだ生焼けの生地がじゅううじゅうと音を立てて湯気を放出するのを横目に、焦げたソースの香りでハイボールを飲みながらあたしたちはすでに酔っていた。
いや、酔っていたのはあたしだけだったのだ、きっと。

「だから、今野さんは深く考え過ぎなんだってば。そこまで自分のことがわかっているのに、どうしてちょこっと考え方を変えることができないんだろうね。そうできたら楽なのにね」

「頭でっかちなんです」
あたしは、今日五度目のその台詞を吐いた。
「頭で考えることができても、心と体がついていかないんです」
上司の影響で最近ハイボールにハマりはじめたあたしは、すでに二杯目のグラスを空にしようとしていた。

「ちょっとちょっと。もっと何か食べなよ。悪酔いするよ」
はい、と頷きながらも、あたしはくらくらした頭をかなづちで叩きながら、言葉を絞り出す。
今日はアルコールの力を借りないと、ちょっと話せそうにない。

今日は、なにもかもさらけ出すために来たのだ。
心を殺して、生きるために働こうと決めたこの会社で、出逢ってしまった「深い人」であるこの人に。

「美味しいですね、この枝豆」
「うん、普通の枝豆だけどね」

「あたしは、人と深くつながることが怖いんです。だって、そうしたら、それが大切な人になるほど、あたしは身動きが取れなくなるから。気まぐれで、わがままなあたしに付き合ってもらう訳にはいかないって、自分で勝手にハードルを作って、自分も、そして結果的に相手も縛り付けてしまうんです。そうして、結局、もうその重さに耐えられなくなる」

「あんたさ、」ふうーっとタバコの煙を吐き出しながら、上司は目を細める。
「そりゃ人と関わるのはしんどいよ。だって、全部が自分の予測のつかないことなんだから。頭のいいあなたには、それが余計に耐えられない。そうでしょ? うちは専門学校を出て、そのまま就職したから、小難しいベンキョウのお話はよくわかんないよ。でもね、いろんな人を見てきた。一流企業で毎日10時まで働く同級生、国の保護を受けなくちゃならない境遇の人、人を利用して裏切りを繰り返す人、毎日のルーティンを繰り返して、ただ人生が後ろに過ぎ去ってゆくのを待つ人。そういうのを見ているとね、なんだかよくわからなくなる。人生ってやつとか、生き方ってやつとかがね。でもね、そうしていると、自分が浮き上がってくるの。自分がこれまでいた境遇のこととか、家族とか、そういうことがね。そういう時に、いかに自分の芯の芯を守れるかどうかだよ。それは、考えてどうこうなるもんじゃない。見つかるものなんだ」

目の前でイカ玉の端っこが焦げだしてきた。あたしはそれをぼうっと見つめていて、上司は少し苦笑いしながら、タバコを口に加えて取り分けてくれる。
「ちょっとトイレに行ってくるから。ちゃんと食べるんだよ」
そう言って、彼女は席を立った。

あたしはそんなにものを深く考えないからーーー。
そう言っていつも明るくガハハと笑っている上司は、やっぱりすごく深かった。
考えて辿り着いたんじゃなく、彼女の30年の人生が彼女を彼女たらしめたのだ。

たった5歳年上。
まともな社会経験で言えば、10年と1年。
あたしたちの間には、とてつもなく大きな隔たりがあった。

あたしは、浅瀬でぐるぐると泳いでいるだけだった。
足のつくところから出ずに、それでもその外には深い海があることを、その存在だけを知り、浅瀬にいる仲間たちに得意げに、さも自分が海の全てを知っているかのように語っていただけだったのだ。
泳ぎ方も知らないくせに。
一旦、足の付かないところに出ると、すぐに溺れてしまう。
そして、誰かがボートの上に引っ張りあげてくれるのを待っている。
25歳になっても。

あたしは、泳ぎ方を覚えなくちゃならない。

「大丈夫か?」
上司が帰ってきた。
「はい、ハイボールを。ください。」
「これ食べてからね」
「あたしは、野田さんが好きです。野田さんに出会えて、よかった」

食欲はなかったが、しぶしぶ目の前のイカ玉をつつきながら、話しだす。とまらない。

「この会社で管理職に就く人たちの中に、少なくともあたしが出逢った人の中には、あたしが憧れる人はいないんです。今目の前にいる野田さんと、隣の席の上崎さん。あの人が、うちの部の仕事を実質ほぼ一人で考えて動かしていることも、わかります。家族との時間のために毎日定時で帰るのだって、誰も文句言えっこありません。けれど、上に上がるためには、もっと汚くならなくちゃならない。そんな会社で、何を頑張ればいいんでしょう。社会って、こんなものなんでしょうか」

「うちはこの会社しか知らないから、社会ってもんがわからないけど、上崎さんは、いいことも悪いことも、何でも物事のいい面を見ようとするからね。だから、すごく幸せそうじゃない? どんなことでも、ポジティブ。それは、部下に対してもそうだよ。うちらが腐らないように、この仕事は楽しいんだぞ〜って言って、うちらにちゃんと考えさせようとしている。そういうとこまで、気を配ってる人だと思う。なんだか、上崎さんを褒める会みたいになってるけど。それが、もっと上の管理職にはできてない。自分たちが腐って、人任せだから、うちらだってやる気なくなるじゃない。上司の務めってのをちゃんとわかってるのは、上崎さんくらいだよ」

「あと、野田さんもですけどね。あたしは、仕事も、プライベートも、0か100かなんです。好きなことには、好きな人には全力で接したい。でもそうじゃないものには、あたしの狭いキャパシティーの1%だってくれてやりたくないんです。好きではない、関心の持てないこと。これはどうでもいいんです。でも、あたしの領域にズカズカと踏み込んで、価値観を押し付けてくる人たちの対応に、あたしはものすごくエネルギーを奪われてしまう。けれど、そこから逃げてばっかじゃ、あたしはあたしのまま。こんなあたしのまま」

今日のあたしは、やけに生意気だ。これも全部、ハイボールのせいなんだ。
話している時、あたしの箸は止まる。
2つのことが同時にできない。
これが、偏食持ちでアトピー持ちのあたしが友人との外食を避ける、3つめの理由だ。

「逃げてもいいんだよ。全然、それはありなんだってば」
ハイボールと、熱いお茶を2杯ください、と会話と食事と注文を同時に器用にこなす野田さんが店員に話しかける。

「今がしんどくて、逃げたいって思ったら、逃げたらいい。それが嫌なら、もう少し踏ん張ってみればいい。もしかしたら、それは逃げなんかじゃなくて、やっとあなたが自分に正直になれたって証なのかもしれない。そういうことは、自分にしかわからないし、自分で選ぶことができる」

あたしはわけがわからなくなって、皿の上のお好み焼きを一度に頬張った。
野田さんは、今日5本目のタバコを吸いながら、6杯目のハイボールのグラスを空ける。
この人との沈黙は、嫌じゃない。
あたしはふいに、泣きそうになる。

「なるようになるんだよ。生きていれば。逆に、なるようにしか、ならないの。これからのことはまだわからないけど、でもそんなことを言っていたら、いつまで経っても『今』を生きることなんてできっこないんだから。それは、思考や迷いを捨てて、流れにただ身を任せるだけっていうのとは、また違うと、うちは思う。自分の意志で決断して、それに行動を伴わせて、そういうのも含めて、なるようにしかならないから」

30歳の上司は、もうすぐ定年を迎える部長なんかよりも、ずっとずっと、本当の意味で大人に見えた。
それは、あたしが60歳になった時に、また違った見え方になるのかもしれない。
ううん、きっとなる。

けれど、今のあたしは、25歳なのだ。
25歳をしっかり生きて、26歳、30歳、40歳、50歳、とちゃんと今を積み重ねていかないと、それは「自分を生きた」って言えないんだろうと思う。

ヘッセの『デミアン』の一節に、「人生とは、目指す職業やそんなものではなく、自分自身に到達するか否かのただ一点だ」って文章があって、あたしはあの頃ひどく共感した。
物書きの夢だけで生きていくことに恐れをなし、別の職業を保身で選んだ自分自身を安心させるために、恐らくはこの言葉に救いを求めた。

けれど、今は。
「自分自身に達する」
こういう人生を歩むために、あたしはやっぱり物書きをして、そこに自分の持てる(たぶん人よりも少ない)精神力と体力を注ぎたいと決心した。
ただ今は、野田さんと上崎さんともう少し仕事をしていたい。
こんな人たちに出逢ってしまった。

「また、飲みに行こうな。こんな風に、深く話を聞いてくれる相手って、実はなかなかいなかったりするから、楽しかったよ」

「はい、好きです。また明日からも会社でよろしくお願いします」

かっこ良くて、かわいい、自慢の上司なのだ。
世界平和を願う、優しい彼女の人生が素敵なものになるよう、まずは彼女の婚活がうまくいくことを、あたしは来年の初詣でお願いしよう。

あとがき

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投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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