バーベキューはパパと

「美優、お刺身ばかり食べないでチキン食べなさい。お刺身はお父さんのなんだからね」

「だってマグロおいしいんだもん。それに昨日もチキンだったじゃん。もう飽きたよ」

そう言って、もうすぐ九歳になる娘の美優は母親の目を盗んで俺の皿に手を伸ばしてくる。この計算したような上目遣いに、俺はいつも降参してしまう。

今日は水曜日。部活で遅くなる裕也はまだ帰っていない。あいつが中学でサッカー部に入ってからというもの、家族揃って食卓を囲むことはほとんどなくなった。火曜日と水曜日が休みの住宅メーカー勤務の俺と、平日は毎日練習がある中学三年生のサッカー少年である息子。こうやって、俺の知らない間に子どもたちはどんどん成長していくのだろう。

「お兄ちゃんはいつもおいしそうにたくさん食べてくれるのに」

「どうせママはお兄ちゃんのほうが好きなんでしょう」

「そういうことじゃないでしょ」

「お魚のほうがヘルシーだし」

「あら、いっちょ前の口利いて。土曜日の唐揚げなしにしようか?」

「それとこれとは違うの!」

女性陣二人は、いつも飽きることなく会話をしている。週に二度きり、いや近頃は一度、こうやって彼女たちと夕飯が食べられればいいほうだ。今年からめでたく課長に昇進した俺は、出勤日の残業はもちろん、休日出勤も以前より増えた。けれどこの様子だと、彼女たちは俺抜きでも楽しく暮らしているのだろう。そう思うと、ほっとするような、寂しいような。

「ただいま。腹減ったあ」昨日より早く息子の疲れた声が聞こえる。

「お兄ちゃん、今日は早かったんだね」美優の顔にぱっと花が咲く。
彼女は遊んでもらえないだのなんだかんだの言って、小さい頃からお兄ちゃんのことがかなり好きらしい。裕也はというと、まんざらでもないくせにいつもクールぶっている。そんな態度ばかり取っていると、そのうちに相手にしてもらえなくなるんだぞ、とは口には出さない。

「今日はコーチが休みだったから」
言いながらもう白飯を口にかき込んでいる。

「うめえ! チーズチキンじゃん」

「ほうら」妻の優里がしたり顔を美優に向ける。全く大人げない。

美優は母親の意地悪に気づかないふりをして俺の皿からさらにマグロを一切れ掴んでゆく。

「てゆうかさ、なんでうちは鶏肉ばっかなの」

「鶏肉おいしいじゃない。それに栄養もたっぷりだし、経済的だし」妻が応える。

「ママ、二言目には『ケイザイテキ』って言うよね。それってうちにあんまりお金がないってこと? パパは家を作る会社なのに、うちは庭もない小さなマンションだし。美優、最悪でも中学生になったらママと一緒じゃない美優だけの部屋ほしいんだけど」

瞬間、食卓の上に沈黙が流れる。

「おかわり」裕也が空気を読んだのか、その沈黙をさりげなく破る。

「自分でよそいなさい。お母さんはあなたの家政婦じゃありません」
いつになく妻の息子への当たりがきつくなっている。

「こないださ、優花里ちゃんの誕生日パーティーに行ったんだよ。優花里ちゃんのお母さんは仕事でいなかったけどお父さんがいてね、庭でバーベキューしたんだ。庭でだよ? うちじゃありえない。それにサーティーワンのアイスケーキだって三つもあったし、トイレは勝手に流れるし、帰る時にはかわいいクッキーもくれたし、美優、もう今年の誕生日はみんなを家に呼べないよ。うちのパパはお休みの日も仕事してるのに、なんで?」

「美優っ」さすがに俺に悪いと思ったのか、それとも自身のプライドが傷つけられたのか、優里が声を荒げる。

裕也は慣れているのか、我関せずと言った様子で、鶏肉の咀嚼を続けながらぼうっとテレビの画面を見つめている。

「ママ、いいよ」俺はたまらなくなって美優の皿にもう一切れマグロを載せてやる。

「美優、ごめんな。そんな思いさせてたなんて、パパ知らなかった。今年から課長になったし、もっと一生懸命働いて、美優が中学生になるまでに大きなお家に引っ越せるように頑張るから。……だから、泣くなよ」

俺の手の下で、美優の頭が熱を持っていた。子どもが泣くと、体温が上がる。久しぶりに感じるこの熱が、俺が普段いかに子どもと触れ合っていないかを物語る。

「もういいよ、パパのばか!」
そう言って美優はベランダへ駆けてゆく。今の家には、彼女が安心して泣ける場所もないのだ。ハムスター柄の美優の皿には、色の悪い赤身のマグロが残されたままだった。

「あたし、働こうか」
長い沈黙の後、優里がぽつりと言った。

「お前、そんな余裕ないだろ。会社勤めしてたときだって、よく体調崩してたじゃないか。それに、今は子どもたちのことだってあるし。お前が嫌でなければ、お前には家にいてほしい」
俺は、自分の不甲斐なさと、今の日本のサラリーマン制度への憤慨とでやりきれなくなった。

「たぶんだけど」
テレビを見て笑っていた裕也が俺たちに目を向ける。

「たぶん、二人ともなんか思い違いしてる。美優が言いたかったのは、俺が思うにそういうことじゃない」

「そういうことじゃないってどういう……」

「あと俺、サッカーの推薦受けないから。普通に公立の高校行くし。サッカーで食っていけるわけねえしな。風呂入ってくるわ」
裕也は優里の質問には答えず、さっさと風呂場に向かってしまう。

「ちょっとあたし、美優見てくる」

「待って。俺に行かせて」
俺はハムスターの皿を持って、ベランダに向かった。

「美優?」
俺はベランダに通ずる窓をわずかに開けて娘の名を呼ぶ。
通勤の便を優先して都心に借りたマンションのささやかなベランダは、美優が小学校で育てたアサガオと三本の物干し竿でいっぱいになってしまう。バーベキューなんてとてもできない。できたとしても、七輪で餅を焼くくらいが関の山だろう。

娘は「なに」と怒ったような声で小さく呟く。

「パパ、なんか間違ってたかもしれない。ごめんな。昔、ママにもよく女心がわかってないって怒られたよ。マグロ食べる?」
そう言って俺は、例のネズミ科小動物が描かれた皿を差し出す。

「そういうとこだよ、パパ」
おはしもないし、と言いながら美優は少し笑って皿を受け取った。

「今回だけ特別に教えてあげる」

「すまん、恩に着る」俺はすでに女性の心を持ち始めている娘の顔を拝んだ。

「優花里ちゃんのお家はいいなあって思ったよ、確かに。あんなところに住めたら、素敵だなあって。でも、美優がいちばんいいなって思ったのは、優花里ちゃんにはお父さんがいたってことなの。お父さんが、優花里ちゃんの誕生日のためにバーベキューの用意をしたり、ケーキを買ってくれたり、美優たちに今度車で川に行こうなって言ってくれたりしたことなの。優花里ちゃん、すごく嬉しそうだった。美優、パパに誕生日パーティーしてもらったのは覚えてるけど、美優だってパパを友達に自慢したいんだよ」

「美優、パパ、今すぐ美優を抱きしめたいんだがいいか?」
俺は返す言葉もなくほとんど泣きそうになって、ぎゅっと目をつむり、両手を広げるジェスチャーをした。

「お皿持ってるからだめ。また今度ね」
すっかり機嫌を直した娘は、すました顔でベランダから部屋に入ってきた。

「よし、わかった」
俺は娘の細く頼りない腕を掴み、ポケットからスマホを取り出す。

「パパ、今からAmazonでバーベキューセットを買うぞ。今週の日曜日、荒川でバーベキューするぞ。そのお友達のお庭よりも、ずっとずっと大きいぞ。お前の誕生日パーティーだ。ちょっと早いけどな。美優の友達も呼べるだけ呼んでこい。その、ゆりかちゃん? のお父さんよりも先にみんなで川に行こう。パパが大きな車を借りて、運転するからな」

「優花里ちゃんだよ。って、ほんとに?」娘の顔に再び花が咲く。

「でもパパ、お仕事は?」毎日日付が変わる頃まで仕事をしている俺を知ってか知らずか、美優は俺の休日にもあまりわがままを言わない。

「サラリーマンにはな、『ユウキュウキュウカ』っていうウルトラカードがあるんだ。一年に一回くらいしか出ない、レアカードなんだぞ」
言いながら俺は、頭の中で日曜日に何とか休みを取るための算段を高速でつけていた。娘より大事な商談なんてあるか。一年に一度くらい、許してくれよ。

「えっと、香奈江ちゃんでしょ、彩花ちゃん、遥菜ちゃん、しのぶちゃん、麗子ちゃん、あ、江藤くんも呼んでいいかなあ。ねえ、お兄ちゃんも来るかな? おにいちゃーん」そう言って美優は風呂場へ駆けて行った。

江藤くん? 男の子の名前に俺の中の何かが引っかかる。
優里にも運転頼まなくちゃいけないかもしれないな。友達は数ではないとわかっていながらも、美優にたくさん友達がいることに安堵する。
今日から五月。気候は申し分ない。バーベキューセットはとびきり大きいやつにしてやろう。
置き場所に困る、と優里に怒られるかもしれないけれど。


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あとがき

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