濡れない「かっぱ」

 午後五時の教室。掃除当番の生徒たちももういない。校内に残るのは、部活に精を出す生徒、やっと生徒たちの相手から解放されてようやく事務作業を始めだす教師、そしてアケミたち三人だ。雨のために一日中ほの暗い校舎は、終わらない円周率を思い起こさせるから嫌いだ。

 ほんの一週間前、うざったいくらいに肌を射してきた太陽は、お天気キャスターが曇りを告げた瞬間に無力なミミズのようになる。ここ数日だらだらと降り続く雨は、生き物の細胞ひとつひとつにまで染みこみ、腐らせようとしているかのように湿り気を与える。ああ、今日も洗濯ものは中干しやな、とアケミはため息をつく。

 「もう雨とかほんまだるいわぁ。くつ下また濡れるやん」

 「てゆうか、今年梅雨来るん早ない? まだゴールデンウィーク明けたとこやし」アケミの前の席で、履きつぶした上履きをぱたぱたしているのがサヤ、隣で立って爪を眺めているのがアヤノである。
三人揃って成績はぱっとしない。先日の中間考査でアケミが英語でクラスの10番を取り、二人のひんしゅくを買った。だって、あたしはあんたたちみたいに学費の高い私学の大学にはいけないから。アケミは心の中だけでそう小さく言い訳をした。

 「ほんまそれな。あたしチャリやから、雨めっちゃいややわ」アケミは笑って二人に笑顔を向ける。

 「てゆうか! アケミのかっぱ見たことある? なあ、アヤノ」サヤが突然、芸能人でも見つけたような大きな声をあげる。アケミは驚いて膝を机の裏にぶつけてしまった。

 「え、かっぱ? ないで。チャリ置き場、正門と逆方向やし」

 やめて。アケミは叫ぶ。そうできたら。叫んでサヤを止めたかった。

 「もうめっちゃうけるで! もうあれは典型的な大阪のおばちゃんスタイルやな。ゆうてるうちに、うちらももうおばちゃんかも知らんけど、もうほんまあれはない」がらんどうの校舎に、「もう」と繰り返すサヤの乾いた笑い声が響く。

 「ちょっとサヤ、いじるのなしやで。あれ機能性は抜群やねんから。かっぱとかしょうみ機能性重視やん?」いやでもあれはもう、と笑い転げるサヤの声に、心がざらりと音を立てる。

 「そんなに? かっぱとか高校入って一回も着たことないわ」ほら、彼氏にもらってんこれ、とアヤノがブランド物の折りたたみ傘を取り出す。

 「もう自衛隊レベル。鉄の弾丸も通しませんって感じやから」なぜかサヤが得意気にアケミのかっぱを描写する。

 「ちなみにサンバイザーも装着するからな。メガネも濡れへんで」アケミは目の周りに手で円を描いて見せる。

 「「あんたコンタクトやんー!」」きゃははは、と二人の声が重なる。

 しゃあないやんか。あたしだって、かわいい傘で帰りたい。せめてかわいいかっぱで。でも、制服濡れたらお母さんがクリーニング代高いねんでって怒るんやもん。

 「あんたら雨の日のチャリなめすぎ。一回乗ってみ。まじでその辺のペラペラのかっぱとか一瞬で吹き飛ぶから」アケミは二人を説得するような格好でジェスチャーをしてみせる。大丈夫、こういうのは笑ってネタにしちゃえば、やり過ごせる。

 一人で歩けないおばあちゃんのお世話をしながら、合間を見てパートで働き、保育園の弟のお迎えにぎりぎり駆け込む。それで「アケミ、ほんまにごめんやけど浪人なしの国公立で」と手を合わせるお母さん。アケミのうちはそういう家だった。

 もっと恵まれない子もいる。大学まで行かせてもらえるだけでありがたい。そう自分に言い聞かせながら、できる範囲で家事を手伝ってきた。お小遣いは、ナシ。そんなお母さんが去年の梅雨入り前、覚えたての通販で買った三着のかっぱを嬉しそうにアケミに渡してきた時のことはどうしても忘れることができない。

 「アケミ、去年の梅雨の時めっちゃ濡れて帰ってきたやん? 風邪ひいたらかわいそうやし、これやったら濡れへんから。レビュー見たから」

 目の前にずらりと並んだのは、ワインレッド、ブルー、イエローの目も眩むような色をしたビニール生地。

 「どの色にする? お父さんとお母さんとアケミの分やねん」こんなダサいの着れない、とはどうしても言えなかった。

 お母さんはアケミが高校に入る頃から急に老け込んだ気がする。アケミは、サヤやアヤノが言うみたいに母親に「正しく」反発することができなくなった。制服が濡れたらお母さんが怒るなんてうそ。せめて怒ってくれたら、今までどおり薄っぺらい、でもかわいいかっぱで登校できたかもしれないのに。ワインレッドを選んだのは、せめてものあがきだった。

 「うわ、見て。マックフルーリーの新しい味出てるで。帰り駅前寄ってく?」サヤがスマホを触りながら呟く。もうかっぱのことなど、忘れてしまったようだ。

 「ええで。うち塾まで時間あるし」アヤノが応じる。

 「あたしパスで。バイトやねん」

 「アケミ、ようやるよなあ。受験落ちるで」ししし、とサヤが歯を見せながら悪気なく言う。

 二人に別れを告げ、自宅の方へ向かう。ここから自転車で十分。家と学校のちょうど真ん中にあるスーパー「まつの」で、アケミは週に三回アルバイトをしている。仕事に濡れていくわけにはいかんやん。そう自分を鼓舞する。

 ばさっ。誰もいない駐輪場でワインレッドのレインコートを羽織る。透明のサンバイザーは、化粧が落ちないようにするためというのもあるが、なにより顔が見えにくくなるのがよかった。さっきまで短いスカートのあったところに、長いポンチョがかぶさる。お母さん、よう黄色のポンチョとか着るわ、罰ゲームやん。アケミは自分と入れ替わりに「まつの」から帰宅しているはずの母を思う。まあ「濡れへん」という観点で言うなら、確かにいいよな、このかっぱ。

 空の低いところにある黒い雲からは、まだ雨が降り続いている。雨の日はみんながあまり他の人の顔を見ないからいい、と思いながら、アケミはペダルに足をかけた。

あとがき

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投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
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